
JOURNAL #5312026.03.11更新日:2026.03.11
広報:空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部

1996年2月、国際NGOとしてピースウィンズ・ジャパンを設立。以来、海外の人道支援を続けてきたピースウィンズが初めて日本国内の災害支援に出動したのが、2004年の新潟県中越地震。このときチーム内では「NGOとして国際協力に専念するべきだ」といった反対意見もありました。しかし大西健丞は「海外まで行って災害支援をしているのに、なぜ国内で同じことを“できるのに”やらないんだ。そもそも災害支援に、国外と国内、そこに境界線を引いてしまう意味がわからない」と一蹴し、新潟の被災地に駆けつけます。それから“準備”を積み重ねていくなかで起きた東日本大震災。連載『3.11の記憶とこれから』の最後は、ピースウィンズ代表大西健丞に話を聞きました。
―― 2011年3月11日の発災時、大西さんはどこにいたのでしょうか?
救助犬とハンドラーの育成をしているREDOGという団体を見学するために、スイスにいました。まさに施設を訪ねるという日の朝、テレビのニュースの映像を見て知ったのですが、すでにスイスでも大騒ぎで、迎えに来てくれたREDOGの車のなかにいた救助犬のお尻だけを見てすぐにさよならをして、急いで飛行場に向かいました。
帰国後、まずは現場を見ないとなにもわからないので、一番早く現地に入れる手段を確認。気仙沼や南三陸は瓦礫で道が完全に寸断され、津波で海岸線の道も壊滅的な状態、陸路からのアクセスは難しいことがわかったのでヘリコプターで現地入りするプランを立て、その翌日、発災から2日後にヘリコプターで気仙沼に飛びました。
民間としてはおそらく本当に被害が大きかった地域に最初に入った団体だったと思います。

―― 2011年の時点ですでにヘリコプターは所有していた。
東日本大震災の災害は、ある程度想定していた話で、震災の2年くらい前から“もうすぐ大きな津波を伴う地震が日本を襲う”ということをオオカミ少年のように言って、みんなからは「うそだ」とずっと言われながらいろいろ準備を進めていました。ヘリコプターもそのひとつです。
―― 東日本大震災を想定していた、ということですが、何かきっかけはあったのでしょうか。
「津波」は日本語なのに、日本ではほとんど警戒されていなかったんですね。その状況に違和感を覚えながらいろいろな文献や論文などを読み、予想はできていましたが、より専門的な知識を得るために、火山地震学を研究していた方から地震学について徹底的に学びました。
彼の専門は「古文書における地震学」という、どちらかというと文系の地震学で、その方から東北の貞観地震(869年)や、その後に現在の関東地方に起こった武蔵国大地震(878年)のこと、さらにその後に南海トラフの東南海・南海が連続して地震が起きていることを学んでいくなかで、近い将来、大規模な地震が起きる可能性が非常に高いことがわかったので、本格的に準備を始めたのがきっかけです。
―― オオカミ少年と言われながら、それでも大規模災害に向けて準備を進めてきた、その成果が東日本大震災では発揮されたというわけですね。
災害対策の基本は、どれだけ準備ができるか。備えていなければ、何もできません。常に大規模な災害が起きることを想定し、準備し続けることが必要です。それは今も変わらず、南海トラフ巨大地震や、千島海溝地震など、これから起きる可能性の高い大規模災害を想定してさまざまな準備を進めています。

―― 3,11の記憶のなかで、忘れられない出来事や光景はありますか。
すべて昨日のことのように、記憶にも感覚的にも鮮明に残っています。特に被災者のなげきや悲しみの声は、忘れることができません。
若いスタッフには、ご遺体があるような過酷な現場では、PTSDなどになってしまう可能性があるから、作業に問題がない限り、最低限の視覚を確保して凝視はするなと伝えています。でも、声や言葉は耳をふさがない限り、聞こえてしまう。しかも、日本語だから理解もできて耳に入ってくるので、支援者にとっても本当につらい、心理的負担が大きな現場でした。
現地に入って最初の頃は、ご遺体に遭うことも多く、布団や毛布、カーテンなど、その場所にあるもので、包んであげるようなこともしました。ご遺体は、体育館の真ん中に安置されて、その周りにはご遺族の方が寝泊まりしている……津波の破壊力や被災状況ばかりに目を奪われがちですが、現場は本当に言葉にならない、壮絶な状況でした。
しかし、こうした衝撃は、本当に被災地だけのもので、周囲にはまったく伝わっていない。被災地から離れれば他人事なんだということを、さまざまな場面で実感した記憶も残っています。

たとえば、当時仙台の郊外にある倉庫に、1回備蓄を集積したことがありました。ある日、大越健介さんがキャスターを務めるNHKのニュース番組に出演させてもらったときに、その映像を見て、現地で救援物資は足りているのでは、という意見がでました。あまりの認識の差に愕然として、現実を伝えました。
「そんなことはありません。70万の人が1日2食食べると140万食が必要です。それは何トン分で、トラック何台分になるのか。また沿岸部にはトラックが入れない状況で、どのように沿岸地区にいる被災者に食料を届けるのか。現実は2食どころか、1日1食、しかもおにぎり一個という現場もあります。現地では、課題だらけで、何もかも足りていません」と。
現在のようにまだスマホやインターネットなども充実していなかった頃で、東京の認識と現場で起こっている現実の乖離があまりに大きく、それを指摘すると、大越健介さんもアナウンサーも息をのむような感じでしたが、その放送をきっかけに、スタジオだけでなく、日本全体の雰囲気が変わったと思います。
官も民も、支援する側、災害対策を考える人にとって大事なのは、災害をどれだけ自分ごと化できるか。とてもシンプルなことですが、それができない限り、被災者が本当に必要とする支援はできません。

―― 東日本大震災の支援からの教訓はありますか。
あれだけ大きな災害なのでいろいろなことを学び、現在の私たちの災害支援の原型になるような支援もいくつかあります。特に今のままの非力な状態でいいのかという課題は、この東日本大震災のときにより明確になったような気がします。
災害対策は、備えていなければ何もできないため、平時から準備を進めていきますが、そのコストをだれが負担するか、という問題が常にあります。たとえば、自治体の要請に従ってやったとしても、現状の制度では費用弁償すらしてくれないから、災害時の活動も、平時の備えに係る費用もすべて団体の持ち出しになります。これは多くのNPOが抱える問題でもあり、財務体制に大きな打撃を与え続ける深刻な課題です。
日本は、民間団体が公益を担うという発想が非常に希薄で、仕組みや制度の変更をずっと訴え続けてきましたが、残念ながら現状何も変わっていません。ならば自分たちで道を切り開いて前へ進むしかない、その覚悟を腹に据えたのが東日本大震災のときで、その後、多くの寄付者や提携企業のサポートを受けながら自分たちの力を強化し続けてきました。

東日本大震災の経験も踏まえ、今、ピースウィンズが目指しているのは、完全自立型の救援組織です。現場で誰からもサポートされなくても、自立して支援活動ができるチームと体制、環境をつくる。その一環として、ヘリコプターや船舶を所有し、2019年には医療チームを立ち上げました。
東日本大震災の頃から比べれば、大きく進歩してきましたが、それでもさらにもう少しドライブをかけていかないと、南海トラフ巨大地震や首都直下型地震など次の大きな災害にはまた非力で臨むことになるという危機感は持っています。まだまだ、もっと力をつけていく必要があります。
―― 現在の支援の原型という言葉がありましたが、具体的にたとえばどのような支援活動が今につながっているのでしょうか。
ひとつは、企業連携が挙げられます。東日本大震災の少し前の話からになりますが、空気で大きく膨らむイベント用テントの広告を新幹線で見たことがありました。それをみて避難用のシェルターに活用できるのではと考え、販売元の帝人に話をしにいき、さらにピースウィンズとしてはあまりたくさんは抱えられないので、イオンに相談して災害対策として30基ぐらい購入してもらう約束をとりつけました。

それがきっかけで、帝人と共同で避難用シェルターを開発し、ピースウィンズとしては初めてとなる国内災害支援の出動となった2004年の中越地震のときに、そのシェルターをイオンの駐車場で展開して、周辺の被災者にあたたかい食事を提供する支援を行いました。この連携をもとに、東日本大震災ではより多くの企業と提携したという経緯があります。
企業と連携して、自分たちだけではできない、より大きな支援を実現する。官に頼らず、企業社会から自然発生的にいろいろな支援をピースウィンズを通して被災地に届けるという仕組みが、東日本大震災の支援である程度確立できた、ということです。

もうひとつは、ヘリコプターを使った支援のカタチです。中越地震のときは、なんとか陸路でアプローチできましたが、内陸の断層型の地震ではなく、プレートが動いて津波を伴うような海溝型地震はより広域災害になり、さらに現地に入ることはできないことが想定されました。さてどうするか、そこでヒントを得たのが、その同じ年の12月にインドネシア・アチェの津波災害で見た、空路からのアクセスです。
このアチェでの支援で、シンガポール海軍がヘリコプターと船を統合的に使って、とても有効な支援を即効的に行っていました。その機動力とスピード感は見習いたいと思ったのがはじまりです。
当時、「NPOなのだからヘリなんて必要ない」という不要論がマジョリティ(多数派)でしたが、この議論は、ヘリコプターの有用性を証明した2011年の東日本大震災で決定的な結論がでます。その意味でも、東日本大震災は日本の災害対策における、ひとつの大きな転換期になったと思います。

―― 2024年1月1日に発災した能登半島地震の支援では、東日本大震災後に発足した空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”が、大きな役割を果たしました。東日本大震災と能登半島地震の支援を比べたとき、何か大きな違い、変化は感じられましたか。
NPOに対する官の受け止め方は、大きく変わったと思います。能登半島地震の緊急支援では船もヘリコプターも活用して、さらに長期化する活動を想定し、被災地内で自立して活動が続けられるベースキャンプも設営するなど、どこよりも長い期間、現地で活動を続けることができました。
東日本のときは、まだアクターとして非営利団体が理解されていたわけではなく、NPOがいろいろな機械を駆使して緊急支援や復旧作業に参画していることに、とても不思議がられていました。一部では、政府機関と思われていたほど、謎の存在だったのだと思います。
それが能登半島地震のときは、政府関係者がピースウィンズのベースキャンプを視察したり、自衛隊と連携してそれぞれの機体の特徴を活かして患者搬送を行ったりしました。官民が連携したカタチでの支援はこれが初めての試みで、今後の災害支援にもつながる、大きな変化だと感じています。
―― この官民の連携は、どのような経緯で実現できたのでしょうか。
もともと2018年の西日本豪雨のとき、1階部分が完全に浸水して機能不全に陥っていたまび記念病院の院長から「このままでは、今晩、超えられない患者がいる」という連絡を受け、ヘリパッドのない病院の屋上にヘリコプターを着陸させました。そこから19人の患者を岡山大学病院をはじめ別の病院に搬送して全員助かったということがあります。

当時は、行政の許可なく、自己判断で動いたのでとても怒られましたが、実際に8人の命を救ったことが国にも認められて、その後、国交省と災害発生時におけるヘリの運用に関する包括協定を締結することができました。この協定で、ピースウィンズのヘリコプターは基本的に警察や消防、自衛隊のヘリコプターと同じ扱いを受けることになり、自分たちの判断で被災地にヘリコプターを降ろすことができるようになります。
能登半島地震の緊急支援では、患者搬送のほかにも陸路ではアクセスできない孤立集落に支援を届けることができたのも、この協定を結んでいたためです。
こうした実績の積み重ねが、新しい力を生んでいきます。誰かに優遇してもらっているわけではなく、実力を現場で発揮して強引に認めてもらってきた感じですが、能登半島地震では、官民の連携も含めて、東日本大震災のときにはできなかった支援が実現できたと思っています。

―― 最後にこれからピースウィンズがチャレンジしていくことを教えてください。
災害支援に関して言えば、これまでも追求してきたように、支援が難しい被災エリアに一番早く入って必要十分な支援を展開し、なおかつそれを持続できるチーム力と体制の強化を進めていきます。ヘリコプターや船舶の機動力に、1,000を超える企業との連携と、寄付者の方々からのご支援を統合して、災害現場で本当に必要とされる支援を展開できる力を備えていきたいと思っています。ピースウィンズをハブとしたひとつの大きなユニットを組み、被災地を支援していく、というイメージです。
また、われわれが行政の競争相手になることも目指していきます。よりスケールアウトした災害支援を実現させるには、そうした意識を高められる競争相手のような存在が必要で、ピースウィンズがその役割を担えればと思っています。
民間のシビルソサイエティの力を示して、新しい公共的な発想というものを広めていくためにも、ピースウィンズの今後の活動はさらに意義のあるものになっていくでしょう。

―― 大西さんの理想のカタチは、今、どのくらい完成に近づいているのでしょうか。
いえ、まだイメージの10%程度までしか到達していません。大きさだけがすべてではありませんが、より大きな支援を実現するためには、やはりスケールメリットはどうしても必要になってきます。
国際人道支援、国内外の災害支援をはじめ、動物保護や子ども事業なども含めて全体として1,000億円ぐらいの資金を持って、さまざまな社会の公益のために働けるソーシャルイノベーションプラットフォームが、ピースウィンズが最終的に目指している形態です。そうした包括的な公益の仕事のなかに、災害支援や防災の仕組みを構築していかなければなりません。
単に非営利のメカニズムだけではなく、たとえば病院経営や、僻地の診療所の経営を複数担うなど災害支援につながる、さまざまなビジネスモデルと融合していくアイディアなども考えています。自分たちのソーシャルビークルを、いろいろ開拓していくことがより大きな支援につながり、これからも必要なものは誰かの力を借りてやるのではなく、自分たちでその源泉をクリエイトしていきたい、そう思っています。
ピースウィンズ
代表理事
大西 健丞
大阪府出身。1996年にピースウィンズ・ジャパンを設立。国内外災害支援のCivic Force設立に携わる。また、アジア太平洋の総合支援地域国際機関A-PADのCEOに就任。06年にダボス・ヤンググローバル・リーダーに選出。24年に経済同友会 副代表幹事にNPO代表として初めて就任。
東日本大震災
“3.11” から15年。
「忘れない」それ以上のことが
したかった。
特設サイトはこちら
WRITER
広報:
空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部
空飛ぶ捜索医療団"ARROWS"ジャーナル編集部です。災害に関する最新情報と、災害支援・防災に関わるお役立ち情報をお伝えしています。
SUPPORT
ご支援のお願い
支援が必要な人々のために
できること
私たちの活動は、全国のみなさまのご支援・ご寄付によって支えられています。
一秒でも早く、一人でも多くの被災者を助けるために、空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”へのご寄付をお願いいたします。