JOURNAL #5272026.03.05更新日:2026.03.05

【3.11の記憶とこれから#05】あの日、私の「災害支援」にスイッチが入った――宮内恵美

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2011年3月11日。宮内看護師は、岐阜の救命救急センターで、慌ただしく被災地へ向かうDMATの背中を見送りました。張り詰めた緊張感のなかに滲む、強い使命感。その光景は、かつて阪神・淡路大震災の焼け野原で何もできなかった高校生の自分を揺り起こし、彼女の人生に切れることのない「支援のスイッチ」を入れました。

泥を掻き出し、被災された方の隣で涙を流し、その土地に根ざして生きる人々の「心の豊かさ」に触れてきた歳月。そうした経験を、空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”の若き隊員たちの力へと昇華させる彼女の目標は「どんな過酷な現場でも誰もが笑顔で帰ってこられる支援の未来を形つくること」。

宮内のあの日の記憶から現在までの挑戦を巡ります。

震災の瞬間、目の前で変わった「日常」

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——2011年3月11日、どこで何をされていましたか。

私は大阪府出身ですが、当時は岐阜県で両親と息子と一緒に暮らし、県内の救命救急センターで看護師として働いていました。勤務中、「何か揺れているな」と感じた次の瞬間、大きな揺れに襲われ、私は咄嗟に患者さんのベッドや点滴を支えていました。

次々とテレビに流れてくる被災地の衝撃的な映像。そのすぐ傍で、さっきまで穏やかな笑顔で仕事をしていた先輩方の表情が一変し、緊張した面持ちでDMATの制服に身を包み、急ぎ足で出動していきました。

その一連の姿から伝染してくる、肌を刺すような緊張感を今でも鮮明に覚えています。残されたスタッフも、第一陣に続く隊員たちの業務調整に奔走し、職場の空気も緊張感に包まれていました。

——DMATチームの姿を間近で見たとき、心境に変化はありましたか。

あのときの、緊張している様子。そのなかにも使命感にあふれた表情。そして迷わず被災地へ向かう背中に、私は強い憧れを抱きました。当時、私はシングルマザーで仕事と子育ての両立に精一杯で、とても行けるような状況ではありませんでしたが、それでもなぜか、『自分も行かなきゃ』という思いに突き動かされました。

どうして自分の現状を差し置いてまでそう思ったのか、何かのスイッチが一気に入ったような感覚で、自分でもよくわかりません。

看護師としてのキャリアは14年目に入っていましたが、それまでは「病院の中で働くこと」しか知らなかったので、まずは災害支援について一から勉強をはじめ、資料や映像、先輩の姿を通じて学びを深めることに没頭しました。

「先輩方も大切な家族を残して出動している。どんな覚悟で臨んでいるのか」
「被災地に迷惑にならないよう自分の安全を確保しながら現地で支援するために、必要な知識とは何か」

素朴な疑問から専門的な技術まで、一つひとつを学ぶたびに、「私はこのために看護師になったのかもしれない」という実感が強くなっていきました。

絶望の光景と、土地に生きる人々の「豊かさ」

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2011年3月21日、岩手県陸前高田の被害の様子

――あの日から今日まで、忘れられない光景はありますか。

発災から10ヵ月後、初めて被災地に入りました。公共交通機関で一ノ関へ向かい、レンタカーで陸前高田を目指し、山道を抜け、沿岸に出た瞬間――そこにあるはずの街が、津波で何もかもなくなっていました。

その光景は今も脳裏に焼き付いています。涙がポロポロとではなく、嗚咽が漏れるほどの涙が溢れ出て、全身の鳥肌がいつまでも収まりませんでした。それが私の災害支援活動の始まりでした。

——被災地では、どのような活動をしていたのですか。

最初の活動は、陸前高田市の社会福祉協議会が立ち上げた災害ボランティアセンターで内勤の看護師として入りましたが、本業である看護業務のほかに、全国各地から参加されたボランティアのサポートや、いろいろなところに設置された簡易トイレの掃除などに回ったりしていました。

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多くのボランティアと一緒にさまざまな支援活動に参加。写真上は、最初の一歩を踏み出した陸前高田のボランティアセンター。下は陸前高田にて側溝の泥出し作業に息子と参加したときのもの

活動を続けるうちに地元の方との繋がりも増えていくなかで、その方々と「点」ではなく「線」として、もっと深く時間を共にしたいと思うようになりました。そこで看護師という肩書きを一旦脇に置き、一般のボランティアとして活動することにしたのです。

おこがましい考えかもしれませんが、「お話しを聞くことで、少しでも心が軽くなる時間をつくれたら」という思いで、3年ほど寄り添いの活動を続けました。

――現地に入り活動するなか、今でも心に残っていることはありますか。

そうですね。たくさんの方から学ばせてもらい、忘れられない出来事ばかりですが、そのうちの一つに、価値観が変化したお話しがあります。『先祖になる』というドキュメンタリー映画にもなった、ある木こりのお話しです。

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その方は津波で息子さんを亡くし、家も流されましたが、それでも「同じ場所に自宅を再建する」と譲りませんでした。公的機関は危険だとして止めましたが、彼はこう言ったのです。

「先祖代々ここで生きてきた。ここに家がないと、息子が帰ってこれない。息子のためにここに建てるんだ」

私も一人の親として、その気持ちは痛いほどわかります。しかし、転勤族の家庭で育った私には、本当の意味での「地元」や「先祖代々の土地」への意識が希薄です。最初は「なぜ危険な場所に……」という戸惑いもありましたが、あの日から15年間、災害支援の現場に足を運び続けることで、少しずつその重みが理解できるようになった気がします。

その地に根ざし、ご先祖様を敬い、尊厳を持って生きる。その姿はとても輝いて見えましたし、「豊かさ」を感じました。「生きる」とはどういうことかを教えてもらった気がします。

阪神・淡路大震災の悔しさと、15年の歩み

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―― 大阪出身とのことですが、1995年の阪神・淡路大震災の記憶はありますか。

阪神淡路大震災当時、いとこの家が全壊し、焼け野原になってしまった街を一緒に歩きました。3.11をきっかけに災害支援の道を歩みはじめましたが、実際に被災地に駆けつけるようになってからの思いの根底には、阪神・淡路大震災のときの『恩返し』という気持ちもあります。あのとき、私たちを助けるために駆けつけてくれた多くの人々への感謝は、片時も忘れたことはありません。

もうひとつ、当時の私は高校生でした。何かしたくていろいろな所に申し出たのですが、結局、子どもの自分には何もさせてもらえず、ゴミ拾いをして帰るしかありませんでした。

今も災害支援を続けているのは、当時の感謝だけでなく、何もできなかった自分への「悔しさ」が原動力になっているのかもしれません。

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東日本大震災を風化させないためにボランティア仲間と毎年参加し続けたマラソン大会(2018年まで)。リレーと並行して風化防止イベントなども開催し、3.11の記憶を紡いできた

—— 3.11から15年間が経った今でも「変わらないもの」はありますか。

この15年間の間に、災害支援ナースやDPAT、プライベートでは災害ボランティア団体の立ち上げ、そして空飛ぶ捜索医療団の一員としての活動と、各地の被災地に駆けつける日々を過ごしてきました。

そのなかで確信したのは、むしろ「変わらなければならない」ということです。自分自身の信念や「こうありたい」という姿勢を強く持ちすぎると、時に目の前の相手の意思を置き去りにし、自分の望む方向に誘導してしまうおそれがあります。

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ケガの手当であっても、生活再建であっても、その背景で抱えている課題は人それぞれです。だからこそ、自分の正義を貫くのではなく、目の前の人と真摯に向き合うことで見える「個別の課題」に寄り添うことを心がけています。

たとえば、感情が高ぶっている方には少し長めに声をかけ、その方の回復プロセスを支える会話を大切にする。そんな小さな積み重ねが、支援の根幹だと私は信じています。

空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”での新たな挑戦

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――ARROWSの一員としてこれからの「挑戦」について教えてください。

現在の私の肩書は「看護師/業務調整員」です。看護業務以外にも、隊員の育成を担当しています。教育プログラムを策定し、「数年後にどんな隊員になってほしいか」というビジョンを形にすることに力を注いでいます。

また、広島県神石高原町にある倉庫の医療資機材の管理も重要な仕事です。ARROWSにはヘリコプターや船舶もあり、そして何より、信頼できる仲間がいます。出動する隊員たちがスムーズに資機材を持ち出し、現地で活動に専念できるよう、宿泊場所の確保や物資の調整を行う「ロジスティクス(後方支援)」を強化したいと考えています。

現場の最前線でバリバリ動くことだけが支援ではありません。むしろ、これまでの経験を若い世代に伝え、彼らが最高のパフォーマンスを発揮できるようサポートする「裏方」こそが、今の私の役割だと感じています。

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――どのようなチームを目指していますか?

災害現場は極限状態です。アドレナリンが出て、誰もが緊張し、周りへの配慮が難しくなることもあります。だからこそ、そんな過酷な場所でも仲間にちょっとした一言をかけたり、ユーモアを忘れないような、心の余裕を持てるチームでありたいと思っています。

隊員それぞれの個性を活かし、失敗も吸収しながら成長できる環境をつくること。そして、支援者自身が「笑顔で帰ってこられる」こと。それが結果として、被災された方々へのより良いサポートにつながると信じています。

いつものARROWSのまま、どこへでも駆けつけられる。そんな強くて温かい組織を形づくっていくことが、私の今の挑戦です。


空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”
看護師
宮内 恵美
大阪府出身。産婦人科、NICU、ICU、救命救急センターなどに従事。岐阜県DPATや災害支援ナースとして活動。病院勤務を続けながら、2011年より災害ボランティアとして技術系団体と連携して活動。2024年10月より現職。


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