
JOURNAL #5242026.03.03更新日:2026.03.03
広報:空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部

2011年3月11日、遠く離れたスイスで震災の一報を聞いた海外事業部部長の山本理夏。急ぎ駆けつけた気仙沼の暗闇で目にしたのは、あまりに残酷な「瓦礫の壁」でした。言葉を失うような惨状を前に、「一人でも多くの人を助けたい」と、必死に現場を走り続けました。
あれから15年。医療チームや救助犬、空と海からの支援体制と、ピースウィンズは一歩ずつ「足りないピース」を埋めてきました。けれど、彼女は「完璧と言い切れる日は来ない」と言います。歳月を重ねた今だからこそ見える景色、そして支援を超えた温かなつながりについて、想いを聞きました。

―― 2011年3月11日、どこで、何をされていましたか?
あの日、私はスイスにいました 。当時、ピースウィンズで取り組もうとしていた災害救助犬プロジェクトの一環として、スイス山岳レスキューの現場で訓練の様子を見学しようとしていました。
現地の朝、テレビのニュースで日本の巨大地震の第一報を見ました。最初はまだ映像がなかったのですが、マグニチュードの数字を見ただけで「これはやばい、大変なことが起きている」と直感でわかりました。その後、すぐに津波の衝撃的な映像が流れ始め、その日の予定をすべてキャンセルし、そのまま空港へ向かいました。
―― 異国の地で甚大な被害を目の当たりにし、どのような心境でしたか?
「とにかく早く日本に帰らなければいけない」という一心でした。飛行機に乗ってしまうと数時間は連絡が取れなくなるので、搭乗ギリギリまで東京のチーム全員の安全確認を行い、日本側でできる限りの指示を出しました。空港のカウンターで「日本へ帰れる便なら何でもいい」とチケットを必死に手に入れ、翌12日にようやく成田へ到着しました。
―― 帰国直後の東京も混乱していたと思いますが、現地へはどう向かわれたのでしょうか?
成田から事務所へ移動するだけでも数時間を要しました。公共交通機関は壊滅状態で、タクシーも長蛇の列。荒川の橋も通行制限があり、ようやく事務所に辿り着いたときには、ヘリチームがすでに出発していました。
しかし、東京は大渋滞で交通が麻痺していて、ヘリポートへ向かうチームも大幅に遅れていました。私は「ヘリだけが現地に着いても、降り立った後の足がないと意味がない」と考え、並行して車両チームの手配やロジスティクスの調整に奔走しました。
その後、発災2、3日目には私も陸路で東北を目指しました。

―― 現地に入ったときの最初の印象を教えてください。
夜に気仙沼に到着したのですが、暗闇の中で車のライトに照らされた光景は、衝撃的な「瓦礫の壁」でした。海外で津波支援の経験はありましたが、日本国内でこれほどの惨状を目の当たりにするとは想像もしていませんでした。街の中に膨大な量の瓦礫が押し寄せ、地元の方や消防が必死に開けた「車1台がやっと通れる道」を進む間、車内のスタッフは全員言葉を失い、静まり返っていました。

―― 避難所では、具体的にどのような支援を行いましたか?
最初は物資支援ですね。寒い時期でしたから布団、そして食料を提供しました。毎日おにぎりだけでは栄養も偏り、心も沈んでしまいますから、「果物なら喜ばれるのでは」と現場のニーズを細かく汲み取りながら、東京のチームと連携して物資を運びました。
また、当時は通信が完全に途絶えていたため、私たちが持っていた衛星電話による通信支援も行いました。家族と連絡が取れた瞬間に、あちこちで泣き声が上がりました。安否を確認し、自分たちが今どこにいるかを伝える。あの切実なコミュニケーションの場に立ち会えたことは、非常に貴重な経験でした。

―― 中学生たちとも活動をされていたんですよね。
気仙沼中学校の避難所には、家を流され、身に纏った制服以外すべてを失った子たちがたくさんいました。「ただ配給を待つだけの生活ではなく、彼らにも役割を」という校長先生の言葉をきっかけに、私たちは中学生と共に掃除や物資配布に汗を流しました。
あれから長い歳月が流れ、あの子たちも今や立派な大人になりました。
それだけの年月が経ったのだと。当時の校長先生とはその後もご縁が続き、一緒にアメリカの西海岸へ渡り、現地の学校や行政の方々に日本の教訓を伝える津波防災の講演活動も行いました。

―― 当時、山本さんは1歳のお子さんの母親でもあったそうですね。
はい。プライベートでは1歳の子どもを持つ母親、仕事では支援スタッフというふたつの立場のバランスに悩むこともありました。東京でも放射能への不安から「何を食べさせるべきか」という議論が当時はありましたが、私は福島を越えて東北の現場に通っていました。
でも、東北で頑張っている人たちと一緒に活動することが、私自身の力にもなりました。支援が落ち着いてからも、家族を連れて復興商店街へ買い物に行ったり、夏祭りに参加したりと、個人的な関係性を築いてきました。今年で15年なので、家族とも「今年こそまた東北へ行こう」と話しているところです。

―― この15年間で、ピースウィンズの災害支援体制はどう変わりましたか?
ひとつの大きな災害を経験するたびに、「もっと早く、一人でも多くの人を助けたい」という切実な思いで、足りないピースをひとつずつ埋めてきました。 東日本大震災当時、私たちの組織には常勤の医療チームはいませんでしたが、現在は医師や看護師が常駐する体制を整えています。

あの日、私がスイスでその訓練を学んでいた災害救助犬チームも、今ではチームに組み込まれて、活躍しています。さらにヘリコプターを増やし、船舶による支援体制も整備しています。
また、専門知識を持つ外部人材を登録・管理し、有事に即座に連携できる「ロスター制度」も構築しました。 しかし、装備やシステムが整えばそれで十分、というわけではありません 。災害のたびに突きつけられるのは、「今なら完璧です」と言い切れる日は決して来ないという現実です。だからこそ私たちは、常に現状に甘んじることなく、支援のあり方を改善し続けています。

―― 最後に、山本さんがこの15年間の経験を経て、成し遂げたい世界について教えてください。
2022年3月9日_ロシアによるウクライナ侵攻で多くの難民が逃げているモルドバにて、連携支援団体と会談
今の世界を見渡すと、残念ながら少しずつ「分断」の方向へ向かっているように感じることがあります。しかし、あの日、東日本大震災が起きたとき、日本には「自分にできることで、なんとかしよう」という、立場を超えた強い連帯と行動がありました。
私が何より大切にしたいのは、「支援する側・される側」という一方的な上下関係ではなく、共に課題を乗り越えていく「パートナーシップ」です。自分や身近な人さえ良ければいいという考えではなく、自分とは異なる存在を想像し、その違いを排除せずに受け入れる。そんな、あたたかな包摂力のある社会を築いていきたいです。
―― その未来をつくるために、私たち一人ひとりにできることは何でしょうか?

まずは、相手を「理解しよう」と心を開くこと。そして、一歩「行動」を起こすことではないでしょうか。 政府や自衛隊、私たちのような民間組織、そして企業や学生、組織の枠組みや縦割りを越えて、それぞれの強みを持ち寄り、網の目のように固く結ばれたネットワークを築くこと。それが、次にくる災害から一人でも多くの命を救うための、最も確かな鍵になると私は信じています。

ピースウィンズ・ジャパン
海外事業部部長
山本 理夏
2000年よりピースウィンズでアフガニスタン、イラク、南スーダン、ウクライナなど紛争地における人道支援、トルコ地震や国内外で発生する地震などの自然災害に関わる。現在は海外事業全般を統括し、緊急支援の立ち上げを指揮するほか、長期化する事業地への対応や方針の策定を行う。
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空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部
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