JOURNAL #3872025.01.03更新日:2025.01.06

奥能登に生きる|震災から1年、被災地の願い【#01】

2024年1月1日、地盤隆起による地割れや土砂崩れなどで道路は寸断され、家屋は倒壊。能登半島を襲った地震はまちを破壊し、多くの人が帰る家を失った。さらに9月には、復旧なかばの被災地を記録的な豪雨が襲う。

それでも、ふるさとから離れず、奥能登に生きる人びとがいる。令和6年能登半島地震から1年。被災者はなにを想い、願うのか。震災の記憶と、そのことばを聞く。ひとり目は、ある避難所の自治会長(責任者)を務めた橋本豊美さんの随想――

橋本 豊美さん
珠洲市出身。美容室を経営。地震発生後、高校の避難所へ。学校再開に伴い、移動した避難所で運営責任者(自治会長)を担う。被災者同士の人間関係を大切に、思いやりを持って協力し合う、環境づくりに尽力した

思考が止まってしまったかのように、体が動かなかった

初詣の帰り、私はひとりで経営している美容室に寄ったときに、地震は起きました。

最初の震度5の揺れのときは「ちょっと大きいな」と思った程度で、揺れもすぐに収まりましたが、その数分後に今度は今まで経験したことのないような強烈な揺れが来ました。戸がパンッパンッパンと音を立てるなか、転ばないように必死にものにつかむ以外は何もできない状況で、何よりも怖かったのは、1回目と違ってなかなか揺れが収まらなかったことでした。

さらにスマホから津波警報もなって。見ると石川県も含めた本州の北側の海沿いが赤く点滅していて、「逃げないと……」と思ったけれど「どこに逃げればいいんやろ」と、思考が止まってしまったかのように体が動かないような感覚でした。

それでもなんとか外に出て車に乗って逃げようとしたら、今度は道路に亀裂は入っているし段差はあるし、とてもまともに走れる状態ではありませんでした。この先の道は裂けているのではないかと不安にかられながら前に進むと、土砂崩れで道が寸断されて大渋滞。それ以上は前に進めず、結局知り合いの家の前で車を止めさせてもらって、その日は車のなかで一夜を過ごすことに。

そして夜が明けてから子どもたちと孫が飯田高校に避難していると聞いたので、急いで探しにいきました。あとから聞いたのですが、帰省していた息子のお嫁さんと孫は全壊した自宅にいて、家のなかでかろうじて崩れなかったところにいて助かったそうです。

大きいひとつの屋根の下で暮らす大家族のように暮らせたら

それから実家から弟夫婦と父親も連れてきて学校の避難所で生活を続けていましたが、学校が再開するにあたり、私たちは避難所を移動しなければならなくなりました。

避難所運営は、県や市、“ピースさん”(空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”)のような支援団体の助けを借りながら、基本的には自治に任されます。生涯学習センター(旧飯田保育所)に新しく開設された避難所に引っ越すと、避難所のなかから代表者が数人選ばれ自治会のようなものができ、そのなかで私は会長(責任者)を任せてもらうことになりました。

避難所は、全員が帰る家を失って不安を抱えながら、ほとんどプライベートのない共同生活をしなければならない場所で、どうしたって空気は重く、人間関係も難しくなってしまいがちです。

でも、こんなときだからこそ、できる限り心のかよった避難所にしたい、みんなが少しでも気が楽になれるような、大きいひとつの屋根の下で暮らす大家族のように暮らせたら。

避難所の自治会会長の任を引き受けたとき、そんなことを願っていました。

避難所で大切にしたこと

避難所に入ると「全ての人に開かれ 全ての人に平等で 全ての人に優しく 珠洲市一の避難所」のことばに迎えられる

ひとつは、とにかく「よく話すこと」。

まずは避難所の代表者として信頼してもらえるように、とにかく一人ひとりにかならず声を掛けるようにしました。「おはよう」「体調はどう?」「おかえり」、家族が日常的にかわすあいさつです。最初はとまどう人もいましたが、少しずつ広まり、次第にそれが当たり前のようになっていきました。

最初の頃は、些細なことで言い合いになったり、被災者同士でトラブルになったりすることもありました。そういうとき仲裁に入るのも私の仕事のひとつでしたが、根気よく互いの意見を聞きながら解決策を見つけ、一緒に前に向いていけるように、よく話し合うようにしました。

物資が届けば、子どもも大人もみんなで運ぶのが避難所のルールとなった

もうひとつ大切にしたのが、「だれでも受け入れる」というルールです。

避難所には物資や情報は集まるけれど、それが個々の家まで行き届かないことがあります。避難生活が続くと、みんな心に余裕がなくなっていき、避難所に届く支援物資などはあくまで避難所で生活する人のためのもので、関係のない在宅避難されている方に分け与えることに、抵抗がある人もいます。避難所で生活する人と、在宅避難者の間には見えない壁のようなものがあって、拒んだり拒まれたり……

でも、そうした場面の多くで、みんなモヤモヤする。拒まれたほうは心が折れるし、拒むほうも少なからず嫌な思いが残る。でも、ほんの少し互いに相手の立場を想像すれば、考えは変わってやさしくなれるはずです。こうした非常事態だからこそ、思いやりを持って協力し合うことが絶対に必要だと思っていました。

2024年1月27日ヘアカット退会@生涯学習センター避難所
1月27日、避難所の一角に“仮設美容院”を開設し、避難者のヘアカットをおこなう橋本さん

それを、モノや情報が集まりやすい、避難所から発信する必要がある。だから、周辺の在宅避難の方にも遠慮なく避難所に入ってもらって支援物資をシェアしたり、炊き出しがあれば周辺の在宅の方にも伝えて、自由に来てもらったりしました。

また、当時金沢のほうに避難された方で、各書類の提出や家の片付けのために、通常ならば2時間くらいのところを5、6時間かけて珠洲に戻ってきたけれど泊まるところがなく、困っている方も多くいました。そうした困っている人がいたらこちらから声をかけて助け合うこと、スペースの空きがあれば受け入れよう、そうした想いを避難所のみんなで共有していきました。

断水が何ヵ月も続き、みんなそれぞれに問題を抱えながら杓子定規なルールにも悩まされる苦しい日々のなかで、少しでも気が楽になれるような場所をみんなが求めていました。生涯学習センターの避難所はそんな場所に、避難所のみんなでつくりあげられたかなと思っています。

被災地に必要なもの。これからの珠洲

私たちは、先行きの見えない日々のなかで、誰もが何かに頼らないといけない状況で、私にとってそのひとつは“ピースさん”の存在でした。避難所の責任者は喜んで引き受けましたが、私もひとりの人間で、いろいろなことがあって怒ったり、泣いたり、笑ったり、すごい感情の起伏があったりするなかで、思い悩むこともたくさんあります。

そんなとき、寄り添って悩みを聞いてくれたり、時には一緒に悩んで解決策を考えてくれたりしたのが、“ピースさん”でした。外部の人だからこそ、話せたこともあったと思います。でも、そうした支援者のなかに同じ目線でいてくれる人がいることがどれほど心強いか、言葉では表わせないほど、発災から今でも、大きな支えとなっています。

 私たちは、小さくても心のなかでぽっと灯りがともるようなことがひとつでもあれば、考えや景色も少し変わってきて、それを大切に前に進むことができます。人それぞれですが、そうしたなにかが、被災地が復興に進むには必要です。私にとってそれは“ピース”のみなさんも含めた、つねに“人”でした。

今あらためて思うのは、私はこの珠洲の人が好きで、どんなに震災があってもこの地を離れられないこと。珠洲は、高齢者が多いぶん、人と人のつながりを、珠洲市内のなかでも地域ごとにとても大切にしてきました。避難所では、初めて会う方もいましたが、とても厳しい環境のなか、それでも同じ方向を向いて、みんなで思いやりのある避難所をつくることができたのは、珠洲に根づいてきた人の力なのではないかと感じています。

この人と人が助け合って生きていくコミュニティは、珠洲の大切な日常です。それが壊れたら、みんな心細くなる。これから出ていってしまう人、出て行かなければならない人もいるかと思いますが、それでもいつかは帰りたいと思えるような珠洲を、これから残る人がつくっていかなければと思っています。(了)

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