JOURNAL #3952025.01.17更新日:2025.01.17
2024年1月1日、地盤隆起による地割れや土砂崩れなどで道路は寸断され、家屋は倒壊。能登半島を襲った地震はまちを破壊し、多くの人が帰る家を失った。さらに9月には、復旧なかばの被災地を記録的な豪雨が襲う。
それでも、ふるさとから離れず、奥能登に生きる人びとがいる。令和6年能登半島地震から1年。被災者はなにを想い、願うのか。震災の記憶と、そのことばを聞く。今回は、被災地にて復旧・復興に尽力する、ある家族の願い――
宇都宮 大輔さん・孝弘くん・サナエさん
正月で帰省中に珠洲の自宅は被災し全壊。正院小学校で避難生活を送りながら大輔さんは市の職員として、サナエさんはボランティアとして避難所運営に奔走した。現在は、仮設住宅に入居して市役所の職場にも復帰し、まちの復旧・復興に取り組んでいる
(宇都宮 大輔さん)家族で大阪の私の実家に帰省中くつろいでいるときに突然、携帯のアラートが鳴りました。急いでテレビを点けると珠洲の映像が流れ、「またか……」と思ったのと同時に、「5月の地震とは違う、すぐに市役所に行かなければ」と、直感的に感じたことを覚えています。とにかく私ひとりだけ先に帰って、妻と息子はどうするかはあとで考えることにして、急いで情報収集をしながら珠洲に向かう準備をしました。
3日にはなんとか珠洲に着きたかったのですが、途中で車がまったく進まない渋滞にはまり、天候も悪かったこともあってその日は金沢まで引き返すことに。翌朝ふたたび金沢から珠洲に向かいましたが、いつもなら2時間くらいの運転が10時間以上もかかり、着いたのはかなり夜遅い時間でした。
職場に行くと、市役所のなかで仕事をするか、それとも避難所の手伝いをするか、どっちか選んでほしいとのことだったので、避難者として正院小学校の避難所に入ったこともあり、そのまま避難所の運営を手伝うことにしました。とにかく、避難所で私にできることはすべて担おう、そう思っていました。
(宇都宮 サナエさん)主人を見送ってから、私もできればすぐに戻りたかったのですが、交通網は麻痺していて子どもの学校が再開するのも15日以降と発表されたこともあって、私と息子は遅れて珠洲に帰ることにしました。主人が忙しくてなかなか見に行けなかったという家の様子も心配でしたが、それよりも連日、朝から夜遅くまでつねに気が張った状態で働かなければならない主人の体が心配だったのと、息子の学校をどうするか悩みました 。
状況によってこのまま大阪に残って近くの学校か、私の実家のある金沢の学校に通わせるか、それとも珠洲の学校に行くか、大きく3つの選択肢がありましたが、どれも一長一短で悩ましく、最終的には親だけでは決められないと思い、息子の意思を尊重することにしました。
これから珠洲がどのようになってゆくのか、先行きがみえないなかでいろいろな不安はありましたが、それでもまた珠洲で暮らすことを3人ともごく自然と想い描いていたような気がします。息子にどうする?と聞くと、すぐに「珠洲に帰りたい、珠洲がいい」という答えが返ってきたとき、家族の想いは一緒なのかなと。
それから14日に珠洲に帰ってきて、3人での避難所生活がはじまりました。しかし、夫は避難所を運営する一員として毎日朝から夜遅くまでやることが山積みで、私も5時くらいには起きて避難所の朝ごはんの準備。それから昼も夜も避難所運営をお手伝いして、家族が揃うのは夜の8時か9時くらい。目の前のことで忙しすぎて、ゆっくり会話することは、ほとんどできなかったような気がします。ただ、遅くてもごはんだけは一緒に食べるようにしていました。
息子は、珠洲で生まれ育って、今珠洲が大好きになっているので、それはひとつ良かったねとあらためて主人と話をしています。今までもこれからも、良くも悪くも、私たちからこうしてほしい、こうなってほしいという想いは特にありません。なんでもいいので自分のしたいことを見つけてくれたら嬉しいなと思いますが、なによりのびのびと育ってほしい、それだけを願っています。
(宇都宮 大輔さん)避難所から学校の校庭に建てられた仮設住宅に引っ越してからも妻は継続して炊き出しなどのお手伝いをしながら、4月から私は市役所の通常業務に戻りました。それをきっかけに、避難所に詰めることはなくなりましたが、それでも夕方には避難所のミーティングに参加して、夜ごはんを食べて仮設の家に帰るという日々に変わりました。生活はほんの少し落ち着いたという反面、どこか「途中で抜けてしまって申し訳ない」という気持ちもあったように思います。
市役所に戻っていざ通常業務をはじめようとしたとき、正直、本当に今の状態で業務を動かしていいのか、不安を感じています。もともと私の仕事には、自然環境の保全なども含まれていましたが、震災後、自然環境のことにはあまり目は向けられず、目の前のインフラの復旧が最重要項目でそこに突き進むことが市のミッションとなっていました。
当然、被災状況を鑑みると間違ってはいませんが、それでも同時に自然のことも考えてものごとを進めていかなければ、取り返しのつかないことになるのではないか。「こんなはずじゃなかった」という未来にはならないようにしなければと、想いをめぐらせています。
もともと高齢化と過疎が加速している地域の課題を抱えていたなかで、ただ元に戻すだけの復旧なら、珠洲の未来は先細っていくだけになってしまう。震災があって、今まで通りには立ち行かなくなった面がたくさんありますが、それでも前よりもっと元気な珠洲にすることが、珠洲の未来を切り拓くには必要だと私は思っています。
そのためには、珠洲に魅力を感じて暮らしてみたいという人を増やし、さらにそうして移住してきた方々がいろいろチャンレンジできるような環境を整えていく必要もあるでしょう。もちろん、簡単ではありませんが、珠洲の変わらぬ人と自然の魅力に、新しい人のつながりが加われば、なにか新しいことができるのではないか、そう信じています。
18年前にはじめて珠洲に来たときも思いましたが、珠洲の人は本当にあたたかく、心地よい、ゆったりとした時間のなかで暮らすことができます。震災をきっかけに、このことを今、あらためてかみしめています。
たとえば、地方で大きなお祭りが開催される例はほかにもたくさんみられますが、集落ごとにお祭りがあるのは珠洲のひとつの大きな特徴です。どの祭りも似ているようでそれぞれに個性的で、それだけ人の、地域のつながりを大切にしてきたのだと思います。
そしてこの“人”のまわりには、海も山もあり、食もゆたかで、自然と人の暮らしが地域にしっかりと根づいている。このたおやかな珠洲の魅力をしっかりと未来につなげていきながら、これからの珠洲に生きる息子にも、あらためて感じて学んでいってほしいと願っています。(了)
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