JOURNAL #3962025.01.22更新日:2025.01.22
2024年1月1日、地盤隆起による地割れや土砂崩れなどで道路は寸断され、家屋は倒壊。能登半島を襲った地震はまちを破壊し、多くの人が帰る家を失った。さらに9月には、復旧なかばの被災地を記録的な豪雨が襲う。
それでも、ふるさとから離れず、奥能登に生きる人びとがいる。令和6年能登半島地震から1年。被災者はなにを想い、願うのか。震災の記憶と、そのことばを聞く。今回は、珠洲で生まれ、珠洲で育ったカメラマンの願い――
松田 咲香さん
珠洲市出身。カメラマン。住居は地震と津波で倒壊。ボランティア活動を続けながら人びとが気軽に集まり交流できる「本町ステーション」をオープン。さまざまなイベントを通してコミュニティ再建と珠洲の魅力を伝える情報発信に取り組んでいる
1月1日、私は親が珠洲市内で営んでいる民宿の実家で、撮影した写真の編集作業をしていました。最初の震度5のときは、「久しぶりに揺れたね」と少しだけ話をしてすぐに部屋に戻ろうとしたら、今度は立っていられないほどの大きな揺れがきました。
「家が壊れる」と思い、急いで家の外に逃げましたが、キッチンで仕事をしていた親も含めてお客さんがまだ建物のなかにいることを知り、安否確認と避難を促すためにもう一度建物のなかに。落下物や建物が歪んでしまって部屋の戸が開けられない部屋もありましたが、なんとかベランダづたいに避難してもらうなど、お客さんが全員、建物の外に出たことを確認してから私たち家族は、猫と犬を車に乗せて飯田高校に向かいました。
しかし、渋滞でたどり着けず、車を近くの平な場所に停めて歩いて緑丘中学校の避難所に。避難所は電気も水も止まっていて、非常用の毛布は配られましたが、途中から足りなくなったのでシェアしたりして、みんなでなんとか寒さをしのぐような状況で、私たち家族は、余震も続いて不安な上になかには動物が苦手な人もいると思い、その日は犬と猫と一緒に車のなかで一夜を明かしました。
翌朝、家の状況を確認しに実家と、ひとり暮らしをしていた海沿いの家を見に行きましたが、周辺の電柱が倒れていたり、マンホールが飛び出ていたり、地割れや土砂崩れで通れない道などもあって、かろうじて通れる路地や倒れた家の屋根の上を歩きながら自分の家まで行きました。
なんとかカメラ機材だけでも取り戻せないかと、ささやかな希望を持っていましたが、家は全壊。瓦礫に埋もれてしまった機材を救うことはできず、あきらめるしかなかった。その後、公費解体や罹災証明の申請などをすぐにやらないといけなかったのですが、期限が迫ってきてもなかなか役所に行けず、しばらく現実を受け入れることができない自分がいました。
実家はなんとか倒壊はまぬがれ、私たち家族は避難所にはいかず、在宅避難することに。しかし、食料や着る服などはなく、物資が集まる避難所や県民体育館をまわったり、困っている人がいたらお手伝いをしたり、とにかく目の前の問題に対してできることをこなしていきました。
そのなかで、避難所にいる知り合いから、みんなやり場のない想いをたくさん抱えていて、怒りや苛立ち、悲しみや絶望が交差して言い合いになることが多いという話を聞きました。帰る場所も自由もないし、なにかを選択することさえもできない。これは避難所だけでなく、在宅避難者も含め、みんな“逃げ場”がないような状況だったように思います。
一方で金沢に2次避難したり、集落で集団避難したりしていた友だちからは、自分の気持ちを話せる人も場所もないという悩みを聞きました。生活再建や物資支援も大切ですが、被災した人たちは息抜きができるようなところを求めている。そこで少しだけ状況が落ち着きはじめた4月に、誰もが気軽に集まって交流できるコミュニティスペースとして「本町ステーション」を開設しました。
最初の頃は、「お店ではないし、どう活用すればいいかわからない」という人が多かったのですが、閉ざしていた想いを共有できる場所として、避難所で暮らしていた本町ステーションを一緒に立ち上げた仲間が避難所で知り合った人たちを連れてきたり、そこで来た人たちがまたその友だちを連れてきたりしてくれて、少しずつ訪問者が増えていきました。
私自身、いろいろな方の話を聞くことで、珠洲の現状や課題を知ることができました。本当に人それぞれにいろいろな想いがあって、家族には言えないようなこともここでは話してくれる方もいます。大切な人を失ってしまった遺族の方からは「私が死ねばよかったのに」「一緒に死にたかった」と、本当に息の詰まるような言葉も聞きました。それでも、誰にも言えなかったつらいことを言葉に出して人に話すことで、少しだけ気が楽になったという人もいます。
そして5月には、本町ステーションの存在が広く知られるようになり、音楽会などのイベントを開催できるようになりました。「震災後は音楽などを聴くような余裕も気分にもなれなかったけれど、久しぶりに楽しかった」という声を聞けたとき、本町ステーションの意義を再確認できたように思います。
さらに、断水がなかなか解消されず、まちの復旧がままならないなかで、本町ステーションにあらたな役割が生まれます。たとえば、本当にたくさんの人が支援に来ていただいていますが、実は地域の人とゆっくり話す機会はほとんどありません。今珠洲の人はどんな生活をしているのか、どんな悩みや課題があるのか、なにより珠洲にはどんな魅力があるのか。地域内の人たちだけでなく、外から珠洲に来ていただいた方々とも交流できる場所になっていったのです。
もちろん、いろいろな報道で珠洲の状況は知られていましたが、すべてが本当のところや私たちの想いが十分に伝えられているわけではありません。もっと珠洲のことを知ってほしいという想いはあったので、本町ステーションがこうした地域外の人とも自然に出会える場所になっていったこと。震災で離ればなれになってしまった方がここで再会したり、初めての人と出会ったり、人と人がつながっていくことは、被災地が立ち直っていくにはとても大切で、必要なことであることを、身をもって学べたように思います。
地域は、その土地に住む人がいるからできあがっていきます。とても当たり前のことですが、震災でこのことの意味を、あらためて考えるようになりました。言い換えれば、地域に住む人がいなくなってしまうと地域社会は崩壊し、里山や里海を守れなくなる。これからはそうした認識を、発信していきたいと考えています。
高齢化が進む過疎地には課題や悩みが多いですが、でもこうした地域だからこそ、自分が主役になれるチャンスはいっぱいあるのではないか。歯車のひとつになるのではなく、歯車を動かすひとりになれる。都会だと希薄になりがちな感覚ですが、地域社会のなかで自分の人生をちゃんと生きていくためには、珠洲はとても良い場所なのではないかと私は思っています。
実は珠洲にコミュニティスペースをつくりたいという構想は、地震前から思い描いていました。高齢化が進む珠洲の町に若い人が集まれるような、情報を発信する場所があったらいいなと考え始めたのがきっかけです。その後、地震が起きましたが、想いは震災前からつながっていて、むしろ震災であきらめたくないという強い気持ちと、今だからこそこうしたコミュニティスペースが必要なのではないかという考えが芽生え、漠然と思い描いていたものがより明確になったような気がします
本町ステーションは、震災があってつくった場所ではなく、もともと珠洲市内の活性化の拠点をつくりたいという想いがあった場所です。これからは震災の経験と、被災者のいろいろな声をアーカイブとしてまとめて、防災や減災につながるようなこともしてみたい。どこでも誰でも被災者になりうるということをここ珠洲から発信していきながら、同時に本町ステーションを外の人があまり難しく考えずに、気軽に来られるような珠洲の拠点に育てていければと思っています。
私にとって珠洲は生まれ育ったふるさとであり、アイデンティティのようなもので、一度、外に出たけれど戻ってきて暮らすようになって、あらためてこの珠洲で生きていきたいと思っています。震災という経験を経て、今後珠洲をどう発信していくか、これからも考え続けていきたいと思っています。(了)
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