JOURNAL #4312025.04.28更新日:2025.05.01
広報:空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部
3月28日、ミャンマー・ザガイン地域を震源とするマグニチュード7.7の地震が発生。地震による死者は約5,352人、負傷者約11,400人、行方不明者は数百名にも上る、甚大な被害をもたらしました。この事態を受け、ピースウィンズでは空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”の稲葉基高医師をリーダーとする緊急支援チームを派遣。医療と物資の両面から被災地を支える支援活動を行ないました。
発災から1ヵ月が経った4月28日、ミャンマーでの緊急支援から帰国した稲葉医師と、日本の本部から現地の活動をサポートした山本理夏・ピースウィンズ海外事業部長が、約2週間に渡って実施した支援の概要と成果、そして今後について報告する記者会見を開催しました。その記者会見の全容を紹介します。
※本記事は、会見の内容をもとに記者様からの質疑応答なども含め編集しています
―― はじめに、ミャンマー入国までの経緯、そして被災地に入ったときの状況や印象について教えてください。
稲葉 私たち空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”は、「一秒でも早く」現場に入ることをモットーに活動を行なっていますが、今回はなかなかビザを取得することができず、すぐに現場に入ることができませんでした。
昨年の能登半島地震のときは発災から数時間後に本部から出動し、翌日には被災地で活動していましたが、今回はミャンマーに入国して被災地で実際に活動を開始できたのは、発災から1週間後になります。
また、通常、発災から1週間が経ってまだ路上で人が寝ているという状況はあり得ないと思いますが、今回、私たちが行ったときにはまだ潰れた家の前や屋根もない路上で生活している被災者の方がたくさんいました。
この写真は、私たちが診療活動をしていたお寺の敷地内で、いわゆる避難所になっていた場所です。ここにも、たくさんの人がブルーシートで簡易的な屋根だけをつくって生活をしています。しかし、地面にはマットなどはなく、硬い土の上にそのまま、子どももお年寄りもみんな寝ているという状態です。
日本でも避難所について、体育館で雑魚寝でよいのか、という議論や批判はありますが、今回のミャンマーの状況ははるかに劣悪な環境で、現地に行って正直、びっくりしたという印象はあります。
―― ミャンマーに入国するためのビザを取得するのに時間がかかったということですが、具体的にどこでどのぐらい待たされたのでしょうか。
稲葉 日本で28日の発災直後からすぐに検討・調査を始め、情報収集を進めていきましたが、入国できる確証のないまま31日には日本を出発して隣国タイのバンコクに移動。ミャンマー国内のさまざまなNGOとも連絡をとって、ようやくなんとかビザの手配をしてもらいました。
ただそれも即日出たというわけではなく、結果的にミャンマーに入れたのは4月4日。バンコクに31日から4日の朝まで待機という状況でした。
―― 建物の被害について特徴などはありましたか。
稲葉 2023年2月に起きたトルコ地震のとき、建物が上から下まで潰れるような、いわゆる“パンケーキクラッシュ”と言われる倒壊が注目されました。
今回のミャンマーの被災状況もトルコ地震のときと一緒で、ビルがパンケーキのように潰れていたり、レンガの建物が多いのですが、そのレンガごと崩れてしまっている建物が多くみられました。
また、私たちはマンダレーを拠点に震源地でもあるザガインという地域で医療活動をしていましたが、マンダレーからザガインに行くには大きな川と橋があって、その橋を渡ってザガインに入るとまた一気に様相が変わり、倒壊している建物がさらに多いというような状況でした。
―― 現地では28日の本震以降も余震が続いていましたが、何か気をつけたことなどはありましたか。
稲葉 我々もそのあたりはかなり気を使って活動を行ないました。今回マンダレー市内のホテルに泊まりましたが、被災地でホテルに泊まれるかどうかはわからず、また倒壊のおそれがあるホテルに泊まると二次被害に遭う可能性もありますから、自分たちが生活するテントなども用意していました。
最終的にテント泊にするかホテル泊にするか、議論しましたが、マンダレーのなかで比較的新しいホテルが見つかり、構造評価を専門とされている大学の先生と密に連絡をとり写真や動画等を送ってアドバイスをいただいたりしました。また、自分たちも建物の構造評価に関する研修を受けていましたので、必要なチェック項目をいくつか確認して、先生からの評価と合わせて最終的にここなら大丈夫だろうというホテルに泊まることにしました。安全確認ができなければ、おそらくテント泊で活動を続けていたと思います。
―― 医療支援について、どのような支援を行なったのか、教えてください。
稲葉 私たちは、お寺の敷地のなかにテントを3つ立てさせていただいて臨時診療所を開設。そこに来る患者さんは、どんな患者さんでも診るという方針で医療活動を行ないました。
私自身は外科医ですが、被災地では「内科の患者は診れません」「脳外科の患者は診れません」とは言えません。地震のあとお腹が痛くて困っているという妊婦さんや、たくさんの子どもたちも含めていろいろな方が来られましたが、どんな患者さんも断らずに、みんな対応しました。
私たちが診療したのは4月6日から16日までの約10日間、患者は1日およそ20人から30人、最終的にはトータルで200人弱の患者さんを診ました。
医療の観点からみて特徴的だったのは、外傷の患者さんが多かったこと。能登半島地震のときと比較すると、能登の被災地では発災の翌日から診療を始めましたが、1週後にはケガで骨折したり、縫ったりなどの外科的な処置が必要な患者はほとんどいなくなっていました。
それは適切に搬送ができたり、病院にかかれて手術が受けられたりできたということですが、ミャンマーでは私たちが発災から1週間後に入ったにも関わらず、初日に来た患者さんの90%以上が外傷の患者さんで、骨折しているのにまだ一度もドクターに診てもらっていないという方が何人も私たちのテントに来るという状況でした。
なかでも強く印象に残っているのは、“開放骨折”といって、骨が皮膚を突き破って外に出てしまっている状態のまま、発災から1週間も家にいたという患者さんです。
当然、骨が折れて外に飛び出していますから、そこから感染して死に至る可能性もある状態で、日本では原則として開放骨折の患者は6時間以内に緊急手術、もしくは何らかの処置を行ないます。
しかし、この患者さんはいろいろな理由があって、レントゲンは撮ったけれど、そのまま病院にはかかれずに、1週間も激痛に耐えながら家にいたそうです。
―― 現地の病院に医師がいなくてそうなってしまったのでしょうか。
稲葉 ミャンマーでも本来は日本と同じように医師の指示がないとレントゲンは撮れないようですが、もともと医師がかなり少ないらしく、患者さんがレントゲンだけを撮りにクリニックに行ったり、手術はできないようなところでレントゲンだけ撮るということは、普段から行なわれているようでした。
理由については、確実なところはわからないのですが、我々が現地に入ったときにお聞きした話では、かなり医師数が少なく、さらに以前よりも減っているというお話でした。そうした厳しい医療環境の状況も少なからず影響していたのではないかと思われます。
―― ザガインの診療所では、主にどのような治療が行なわれたのでしょうか。
稲葉 たとえば時間が経って膿が結構出ていたり、死んでしまった組織がまだべったりついているような、そういう傷が結構ありましたので、壊死してしまってるところを取り除くなどの小手術みたいなことは、局所麻酔やブロック麻酔等をして行ないました。
ブロック麻酔とは、ポータブルの超音波の器械で見ながら神経に麻酔をかける処置で、この器械は骨折の診断等にも活用しています。
ただ腕の骨が明らかに折れていたり、足の大腿骨が折れていたり、そういう患者さんも結構いるなかで、日本の手術室でやるようなかなり大きな手術プレートを当てたり、棒を外に付けて創外固定という処置などは、私たちのテントではできません。
―― では先ほどの開放骨折をされた患者さんを含め、骨折した患者はどのような対応をされたのでしょうか。
稲葉 今回我々がその骨折している患者さんたちを診断して、その後どうしたかというと、現地の病院はキャパオーバーでなかなか手術ができないような状況でした。そこで我々のサイトから車で一時間ぐらいの旧マンダレー空港というところにインドのEMTの医療チームがタイプ2で展開をしていたので、そこに患者さんたちを連れて行きました。
日本だと、紹介状を書いて大きい病院に行って手術をしてもらってくださいという流れになりますが、今回のミャンマーの患者さんのなかには経済的に困窮されている方が多く、インドの国際支援の病院ならば無償で手術してもらえるから行ったらどうかというふうにお話をしても、そこまで行く足がない、あるいはもともと車を持っていない、また車があっても地震で潰れてしまって移動手段がないという方など、自分たちでは行けないという方が多くいました。
そこで我々が乗ってきた車でその方々をインドのEMTのフィールドホスピタルまで搬送して引き継いでもらい、手術をしてもらったという流れになります。
―― 診察を通して気づいたこと、患者の特徴などはありましたか。
稲葉 ひとつは、200人弱の患者さんのうち、女性のほうが圧倒的に多く、男性のおよそ倍だったこと。あとは先ほど申し上げた通り、10日間診療を行なったなかで結果的に7割以上が外傷の患者さんだったというのは大きな特徴です。
―― この時期のミャンマーは、気候的にもかなり厳しい環境だったと聞きました。
稲葉 今回は限られた人員と装備と、限られた車両で被災地まで行ったため、エアコンのような装備を持っていく余裕はなく、テント内は38~39℃くらいまで上がります。
一応扇風機はありましたが、むしろ熱風がくるような感じで、さらに湿度は70%もあるなかでもうずっと汗がボタボタ落ちて来るような状態です。カルテを書いていても、もう汗で紙がヨレヨレになってしまうようなこともありました。
―― 電力は確保しないまま診療を行なったのでしょうか、その場合どのような支障があって、それをどのように乗り越えたのでしょうか。
稲葉 ミャンマーはもともと紛争下にあって、地震の前からザガインには1日1時間ぐらいしか電気が来ないという状況です。もともとザガインに住んでいる方々も普段から発電機などを活用していましたが、地震のあと燃料などが手に入りにくくなっていたようです。
そうした情報等も事前に共有があり想定はしていましたので、私たちもかなりワット数のある大型のポータブルバッテリーを被災地に入る前に3台ほど調達して持ち込み、最低限必要な医療機器の充電をはじめ、必要な電力をカバーして診療を行ないました。
―― どのような物資支援を行なったのか、教えてください。
山本 私たちは、この地震が起こる前からミャンマーで支援活動を展開してきておりまして、今回の地震を受けて医療も含めた緊急支援活動を従前の活動に追加して実施しています。物資支援の具体的な内容としては、食料と衛生用品をパッケージ化したものと、毛布と蚊帳といった生活用品をセットにしたものの2種類を用意し、医療チームの活動と並行して被災をしたご家族の方々に配付しました。
たとえば、食料セットには、水や米、食料油、魚の缶詰、衛生用品には石けんや生理用品等、また生活物資として毛布や蚊帳、敷きマット等を用意しました。
これは現地で聞き取り調査をして、ほかの民間団体、あるいはミャンマーの一般の方々が家にあるものを持ってきて、炊き出しをしたり配付したりという状況も踏まえ、そうした支援と被らないように調整をして、必要なところに必要な支援がいくような物資支援活動を進めています。
―― 物資支援を行なう上で何か注意したことや工夫した点などはありますか。
山本 ミャンマーの人びとは、日本よりもお米をよく食べるので、配付物資のなかにお米を多く入れること、それと先ほどの稲葉の話にもありましたが、現地は非常に暑く大変な地域なので、蚊帳を早い段階から配付物資の中に入れるようにしました。
―― 物資支援を行なった地域はミャンマー中部とのことですが、具体的にどの地域に配付したのでしょうか。また支援物資を配付する上で、配付する地域の制約や規制などはあったのでしょうか。
山本 今現時点で配付が完了しているのは、ザガインと、マンダレーの被災地域です。今後は、マンダレー、ザガイン以外の被災地域にも必要な物資を配付できるように、活動範囲を広げていく予定です。
現段階では、明らかな制限や規制がかかっているということはなく、医療支援と同様に物資支援も現地の提携団体と協力をしながら実施しています。今後も提携団体と連携しながら、しっかり活動許可や場所の許諾を得たところで活動をしていきます。
―― 今後の支援活動の展望についてお話を聞かせてください。
山本 緊急支援の任務を終え医療チームは日本に戻ってきましたが、物資支援については現地の提携団体と一緒に今後も支援活動を続けていきます。これからは、たとえば物資の支援よりは、壊れてしまった学校や、倒壊家屋などをどのように建て直していくのか、そうした生活を含めた再建支援が中心になってくるのではないかと考えております。
それらの支援をすべてピースウィンズができるということではありませんが、現地の被災者に寄り添った、必要とされる支援を提供できるように、できるだけ長く活動は継続していきたいと考えています。
―― 地震が起きる前から支援活動を行なっていたとのことですが、具体的にいつ頃から行なっていたのでしょうか。また、今後の支援についてもう少し詳しく教えてください。
山本 ピースウィンズは、2008年にミャンマーを襲ったサイクロン“ナルギス”により大きな被害が出たときにミャンマーでの支援活動を始めました。それ以降、いろいろな支援事業をさまざまな場所で実施してきました。
緊急支援の任務を終え医療チームは日本に戻ってきましたが、物資支援については現地の提携団体と一緒に今後も支援活動を続けていきます。これからは、たとえば物資の支援よりは、壊れてしまった学校や、倒壊家屋などをどのように建て直していくのか、そうした生活を含めた再建支援が中心になってくるのではないかと考えております。
その中で私たちがどこまで何を担っていくのかというのは、現段階ではまだ具体的に見えているわけではありません。ただ、そのなかでピースウインズとして担えるところにしっかりと関わっていきたいと思っています。
たとえば、現地では6月からモンスーンの季節が始まり、雨風がひどくなっていきます。ビニールシートを木に引っかけただけの避難所では、モンスーンはきっとしのげなくて、今いろいろな支援団体あるいは現地の行政の人たちがテントを配っているところです。
しかし、果たしてテントでモンスーンを本当にしのげるのか、さらに水浸しにならないように床上げみたいなことをしなければいけないのではないか、という議論もあります。こうしたことも含めて、今すぐ必要とされる支援と、もう少し中長期的に支援していかなければいけないことの両方を考えながら、現場でできることを着実に積み上げていきたいと思っています。
支援のすべてをピースウィンズができるということではありません。しかし、現地の被災者に寄り添った、必要とされる支援を提供できるように、できるだけ長く活動は継続していきたいと考えています。
【関連記事】ピースウィンズのミャンマーでの活動
―― 現地の医療ニーズについて、一番のニーズはどのようなものになりますか。
稲葉 外傷に対する処置というのがニーズとしてはもっとも多かったと思います。私たちが診療を行なっていた、いわゆる発災から1週間から2週間のところでいうと、マンダレーの総合病院は機能し始めてはいましたが、私たちも含めその地域の病院でも連日多くの手術をやっていると聞きました。
総合病院自体も被災をしてしまっていたので、手術室や集中治療室をかなり制限して運用されていたと思います。そうした制限されたなかでかなり外傷の手術ニーズというのは、今現在も大きいと聞いています。
―― これからまた状況も変わって支援のフェーズも変わっていくかと思いますが、これからの医療ニーズはどのように変わり、なにが必要になってくるのでしょうか。
稲葉 もう本当にあらゆるものが十分ではないというのが正直なところです。バックグラウンドとして紛争下という状況もありますが、その紛争がなかったとしても、かなり大変な災害であることは間違いありません。
しかし、地震の被害情報が先進国のように的確に出てきていないところがたくさんあります。マンダレーとザガイン地域を実際に車で毎日行ったり来たりして見てきたなかで、この状況であれば病院は逼迫しますし、手術もキャパオーバーになってなかなかできなくなりますし、ベッドは院内だけでは回らなくて外に並べなければいけない、そうした状況に陥るのは想像に難くないような状況でした。
そのなかで、いわゆる外傷のケガ人の処置というのがある程度落ち着いたら、今後は災害に関連した病気やメンタルの不調、そうした症状が出てくることが予想されます。この災害地における、いわゆる災害関連死の課題は世界中どこでも同じで、日本でも大震災のあとに心のケアというものが重要視されています。今回のミャンマーでも、そうした心のケアというものが非常に重要なフェーズに、これからなっていくと思います。
―― 今回の出動から学びのようなものはありましたか。
稲葉 WHO(世界保健機関)が定める“EMT(Emergency Medical Team:緊急医療チーム)”の規定のなかに、規模・設備・機能などによって医療チームを分類していますが、今回私たちは“タイプ1”という第一段階のいわゆるクリニックみたいな形で診療を行ないました。その上の“タイプ2”という第2段階になると、手術も可能なレベルの医療施設が展開できるようになります。
今回のように骨折の患者さんがたくさんいる場合、やはり自分たちで手術までできるような装備を持って現地に入ることができれば、より多くの患者さんを助けられます。今後の目標としては、そこを目指していきたいと思います。
―― 今回の支援の意義や感じられた手応えのようなものがあれば、ぜひお伺いできればと思います。
稲葉 みなさんもご存知の通り、今回の支援ではこの紛争下で災害が起きたときの困難性というものを非常に感じました。現地に入るまでに時間を要したということもひとつで、そうしたいろいろな国際支援が最初の段階で二の足を踏まざるを得なかったというのは事実です。
こうした紛争下で非常に政治的にも難しい状況ではありますが、命を助けていく、一秒でも早く困ってる人にアプローチして、目の前の人を助けていくという支援はどんなに難しい情勢であっても必要で、いろいろな人から感謝していただけることなんだということは、あらためて再認識できたように思います。
今後もこういう状況というのはあるかもしれませんが、今回のことを学びにして、少しでも早く命を助ける支援を届けていけるように、今後も取り組んでいきたいと思っています。
―― 今回の支援活動を全体的に振り返り、もっとも難しかったと感じられたことは何でしょうか。
稲葉 具体的な支援活動とは少し別の話になりますが、入国から被災地までたどり着くのが非常に難しかったというのは、今回の支援活動の特徴のひとつだったと思います。これくらいの規模の災害だと、多くの国際支援、海外の医療チームが入っていくのが常ですが、今回は正直なところかなり国が選ばれて、支援に入ることができた国、できなかった国というのがあります。
特に被災の一番大きかったザガイン地域には、いわゆる西側諸国の医療チームは入ることが難しく、海外のNGOの緊急医療チームとして入れたのは、ピースウィンズの空飛ぶ捜索医療団のみになります。
この状況には、いろいろな政治的な理由、背景が、今回の緊急支援を困難なものにするひとつの要因となり、影を落としていたと感じています。
―― 逆にどの国の支援チームはザガイン地域に入れたのでしょうか。
稲葉 事実ベースで申し上げますと、ロシアとインド、シンガポール、それから日本の国際緊急援助隊が、マンダレー市内でWHOに認証されたEMTの国際支援チームとして活動を展開していました。ザガイン地域にはEMTの本部のようなものがあり、私たちはそこと連絡をとりながら診療所を開設しましたが、国際支援として活動したチームは我々だけだったというところです。
―― 西側諸国の医療チームがミャンマーに入れず、稲葉さんたちが入れた理由というのがもしあれば伺えますか。
稲葉 我々が入る前に入っていたという中国チームやASEAN地域、そして日本の国際支援チームなどアジア各国が支援活動を行なっていた状況のなかで、私たちは日本のチームだったというところは、やはり大きかったと思います。
それからミャンマー政府から正式に登録を受けている現地NGOと連携したことも、ザガインで活動できたひとつの要因になりました。
―― 患者さんからの声など、印象に残っているエピソードなどはありますか。
稲葉 ミャンマーは今、紛争下で非常に困難な状況にあります。話を聞いていて私も胸が締め付けられそうになったのは、紛争から逃げてきて、ザガインに来たけれどその直後に地震が起きて……若い夫婦だったのですが、地震で子ども2人を亡くされたそうです。紛争地から子どもを守るために逃げてきたのに、その直後に地震で子どもを失ってしまったのです。
その20代のお父さんも足に大きなケガをしているのに、子どもを失った悲しみで1週間動けず、放っておいたといいます。だから傷はかなり膿んでいましたが、そういうお話を聞くと、私も子どもがいるので、本当につらかったと思います。
また、ミャンマーには仏教徒の方が多いのですが、なかにはイスラム教徒の方でモスクでお祈りしている最中に地震に遭い、そのモスクで37人が亡くなったそうで、その中の“生き残り”だという方もいらっしゃいました。
ケガ自体は大したことなくても、ほとんどの方がこうした壮絶な体験をしています。私たちの活動を献身的にサポートしてくれた通訳さんと患者さんが話している間に、涙を流す患者さんが非常に多くいらっしゃいました。
そうした状況でしたが、日本に対する“好感”というものはすごく感じました。患者さんのなかには日本のアニメが大好きだという子どもや、日本のドラマをよく知っているという方、日本に行ってみたいという話をよく聞きました。かなり傷の状態がひどく、数日通ってくれた女の子は、いつも日本語で「ありがとうございます」と言ってくれました。
被災者はもちろん、支援する側にとっても本当に厳しい環境ですが、大変な状況だからといって手を引いてしまうのではなく、日本がもっとミャンマーのためにできることはもっといっぱいあって、そういうことを見つけてやっていかなければいけないと、現地での活動を通じてあらためて感じています。
―― 日本ができることはもっとたくさんあるのではないか、とおっしゃっていましたが、我々日本の一般市民が何かこの1ヵ月経った今、できることは何かありますでしょうか。
稲葉 正直なところ帰国して、もうミャンマーのこの地震についてあまり報道されていないことに少し悲しく思いました。日本の多くの方は、ミャンマーで大きな地震があって、たくさんの人が困っているということを、もう忘れてしまっているのではないかと。
どの災害でもやはり世の中の関心が薄れるということが、被災地にとって大きなダメージになると私は思っています。もともとミャンマーは紛争下で、さらに大きな地震が起きて多くの命が失われました。
本当に多くの方が家を失い、家族を亡くして大変な状況にある、それに対して日本人は何ができるかということを問い続ける、考え続けるということが、今一番我々にできることなのではないかと思っています。
―― 最後にひと言ずつ、あらめて今回の支援活動を振り返って、日本の方々へのメッセージなどありましたらお願いします。
稲葉 難しい困難な状況下にあっても、私たちのようなそれほど大きなNGOではない民間の力でも役に立てることがあることを現地であらためて感じました。
そういうことを少しでも日本のみなさんに伝えていき、日本のみなさんがミャンマーだけでなく、世界中の災害や紛争で苦しんでいる人たちに寄り添う気持ちで関心を持ち続けていただけれることを願っています。
山本 今回の支援は、なかなか情勢と状況が複雑ななかで、民間のNGOだからこそ比較的早く入ることができ、自由に動けたというのは大いにあった支援になっていると思います。これから先、長く続くであろうミャンマーの、この災害に対して関心を持っていただいて引き続きご支援を賜ればと思っております
今、世界中のほかの地域でも、多くの紛争や災害が起こっています。そういうことに対して内向きになることなく、報道やSNSなどでもたくさん情報が得られると思いますので、関心を持ち続けていただくことが、何よりも現地の方々のためになるのではないかと考えています。
ピースウィンズは、ミャンマーで起きた大規模地震による被災者を救うための支援をおこなっていきます。みなさまからのご寄付が活動の力となり、被災者の命を救い未来につながります。災害で苦しむ人びとのために、あたたかいご支援をお願いいたします。
※国外での支援活動のため、商品など物資寄贈のお申し出はお受けしておりません。
▶2025年ミャンマー地震 緊急支援:Yahoo!ネット募金
▶緊急支援|ミャンマー地震へのご支援を:READYFOR
▶【ミャンマー 大地震】緊急支援を開始します:CAMPFIRE
空飛ぶ捜索医療団”ARROWS” HP:https://arrows.peace-winds.org/
Twitter:https://twitter.com/ARROWS36899898
Facebook:https://www.facebook.com/ARROWS2019
Instagram:https://www.instagram.com/arrows.red2019/
WRITER
広報:
空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部
空飛ぶ捜索医療団"ARROWS"ジャーナル編集部です。災害に関する最新情報と、災害支援・防災に関わるお役立ち情報をお伝えしています。
SUPPORT
ご支援のお願い
支援が必要な人々のために
できること
私たちの活動は、全国のみなさまのご支援・ご寄付によって支えられています。
一秒でも早く、一人でも多くの被災者を助けるために、空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”へのご寄付をお願いいたします。