JOURNAL #2332023.07.10更新日:2024.01.16
ライター:瀬戸 洋一
週末、買い物客などで賑わう東京・渋谷の街を歩いていると、ひときわ目を引くオブジェを見かけました。
まるで街路樹のように設置されている、このオブジェ。渋谷から原宿に向かう明治通り沿いにあります。樹木のような幹や枝には矢印のマークがたくさん。そして、どうやら矢印はみな同じ方向を示しているようです。
このオブジェのそばには作品を説明するプレートが設置されていました。
それによると、この矢印が示す先は代々木公園。東京でも規模の大きな公園のひとつです。
代々木公園は地震などの災害のときにまず避難する「一時退避場所」に指定されており、そこに向かう道筋を示すためのアート作品だとわかりました。
まず退避する場所がある方向を教えてくれる「矢印アート」。設置されているのはここだけではありません。
渋谷駅の近く、山手線が走る架道橋の下です。
どこかで見たことのあるキャラクターではないでしょうか。アート分野で幅広く活躍している人気漫画家、しりあがり寿さんの作品です。さまざまなキャラクターが同じ方向を示す矢印を抱えています。かわいいキャラクターばかりで、つい立ち止まってじっくり見てしまいました。
この作品の矢印が示している先は、渋谷駅から青山方面に坂を登った場所にある青山学院大学です。緑あふれるキャンパスも災害時には「一時退避場所」としての役割を担うことになっています。
都内有数の繁華街がある渋谷区。もし首都直下地震のような大きな災害が起き、電車など公共交通機関が止まってしまったときには区内で約23万人が街に取り残されてしまうと想定されています。こうした「帰宅困難者」が一時的に退避する安全な場所として渋谷駅周辺では代々木公園や青山学院大学が指定されており、「矢印アート」は一人でも多くの人が退避場所にたどり着けるようにと設置されているのです。
この取り組みは渋谷区や地元商店街などが参加している「シブヤ・アローフロジェクト実行委員会」が2017年から始めました。コロナのため渋谷の街を歩く人が少なくなった時期にも設置は進められ、2023年7月現在、渋谷駅周辺には20作品が展開。いずれも国内外の第一線で活躍するアーティストたちが制作に参加しています。
渋谷の街を彩りつつ、存在感を示す「矢印アート」。このアート作品が設置されている背景をもうすこし詳しく見てみたいと思います。
2011年の東日本大震災。首都圏では鉄道の多くがストップしました。平日の日中に発生した地震のため、都心部にある職場や街には多くの人が滞在しており、家に帰ることができない「帰宅困難者」となりました。このときの「帰宅困難者」の数は首都圏で約515万人に上ったと内閣府によって推計されています。
深夜、都心部から郊外にある自宅まで歩く人たちの姿がニュースなどで放送されたのを記憶している人も多いのではないでしょうか。
今後、発生する可能性が指摘されている首都直下地震でも、その発生時間帯によっては多くの人が「帰宅困難者」となるおそれがあり、大震災をきっかけに防災上の重要課題のひとつとして改めて浮かび上がったのです。
いつ発生するかわからない首都直下地震で想定されている「帰宅困難者」の数は都内で最大453万人。都内に人が集まる平日の正午に地震が起きた場合の想定です。
東京都は災害が発生し、「帰宅困難者」になってしまったときはむやみに移動せず、3日間は職場や学校などに待機するよう呼びかけています。なぜでしょうか。
たとえば多くの人が最寄りの駅に駆けつけた場合、駅やその周辺では大きな混乱が起きる可能性があります。鉄道がストップしているという情報が流れている中、駅まで行けばそのうち動くかもしれないと考えて行動するのは危険なのです。
さらに東日本大震災のときのように、多くの人が一斉に帰宅した場合、道路や歩道が多くの人たちで埋まってしまう可能性があります。そうすると警察や消防、自衛隊の車両が通行する妨げになり、救助活動の障害になってしまいます。人命救助のデッドラインと言われている72時間=3日間は一人でも多くの人の命を救うために緊急車両の通行を最優先しなければなりません。そのためにも歩いて帰宅せず、職場や学校といった安全な場所に留まるよう協力を求めているのです。
また、むやみに歩いていると、余震でビルから落ちてくる看板やガラスの破片などでケガをしてしまう可能性もあります。さらに首都直下地震では火災の発生も想定されており、自宅までのルートが安全である保証はありません。みずからの命を守るためにも、移動しないことが大切です。
そうはいっても、職場や学校に滞在し続けることができるのか、と心配になってくるかもしれません。このため、都は企業や学校などに対して三日分の水や食料などの備蓄を求めています。
持病があり常用している薬がある人には、ふだんから数日分を携帯するか職場や学校に常備して置くことも推奨されています。
また、帰宅できない間、大事な家族のことも心配です。連絡が取り合えるように災害時の連絡手段について事前に家族で話し合っておくことも促しています。通信状態がどうなるかも不明なため、できるだけ多くの連絡方法を家族で共有し、手段を確保できるよう努めておくことが安心につながります。
通勤や通学のため外出していた人は職場や学校にそのまま身を寄せて滞在し、待機することができますが、一方で市街地には多くの買い物客や観光客なども訪れています。たまたま買い物などで外出先にいて被災し、職場や学校などに滞在できない、いわば“行き場のない”人は都内だけでも約66万人に上ると推計されています。
このような行き場のない帰宅困難者になった場合、どうすれば良いのでしょうか。まずは余震などに備えて安全を確保できる場所に行くことが必要です。
そうした行き場のない帰宅困難者のために、東京都は三日間滞在できる「一時滞在施設」を設けています。
都立高校や美術館などの都立の施設のほか、民間事業者、区市町村と協力して避難・滞在できる建物の確保を進めており、2023年1月現在、都内で1217か所を「一時滞在施設」として指定。年々、増えていますが、受け入れ可能な人数は44万8479人分と、想定されている行き場のない帰宅困難者の数を下回っています。
また、施設側もすぐに受け入れるための準備が整うわけではありません。発災直後は施設にいる人たちの安全の確保や建物の安全性を確認するなど、それぞれの施設の機能を維持するための作業があります。近くに一時滞在施設があったとしても、受け入れの態勢が整うまで時間がかかる可能性もあります。
そのため、たとえば渋谷区は渋谷駅周辺で被災し、行き場がない人たちが一時的に安全に滞在できる場所として代々木公園や青山学院大学といった「一時退避場所」を指定しているのです。まずは広いところにいったん避難してもらい、安全を確保してもらいます。そのときこそ、街のあちこちにある「矢印アート」がその役割を果たすことが期待されています。
渋谷で「矢印アート」を巡ったのは、土曜日でした。写真は正午ごろにスクランブル交差点に面するビルの屋上から撮影したものです。30度を超える真夏日でしたが、その暑さにもかかわらず買い物などで訪れた多くの人が街を楽しんでいました。
この写真を撮ることのできるビルの屋上は海外からの観光客の間でも知られているようで、隣では台湾から来たという女性2人がポーズをとって記念撮影するなど、世界各国からの旅行者たちで賑わっていました。新型コロナの影響で一時は訪れる人が減った街から一転、インバウンドが本格的に回復していることを実感しました。
またリモートでの働き方が今も続いている人がいる一方で、平日の都心のオフィス街では働く人たちの姿も多く見られます。
JR東日本が毎月公表している路線別の混雑状況によると、平日の通勤時間帯に郊外から都心に向かう電車の多くは2023年5月現在、すでに満員の状態になっています。
都心に人が戻りつつある中、帰宅困難者対策は喫緊の課題として私たちに迫っています。
魅力ある「矢印アート」に惹かれて渋谷を歩き、すべての作品を確認しました。その中で最も新しいのものは2022年12月に設置されたこちらの作品です。
ブラジル人アーティスト、ハンナ・ルカテッリさんの作品で、渋谷駅近くの通路の橋脚に女性たちの姿が描かれています。中でも印象に残ったのは、子供を背負っている女性です。
いつ起きるか分からない首都直下地震。その場にいるのは、健康な大人ばかりではなく、子供や、幼い子供を伴った女性、足腰の弱ったお年寄り、障害がある人たちも含まれるであろうことに改めて気付かされました。
渋谷の街を彩る「矢印アート」を楽しみながら、ふだんから避難する場所やそこに至るまでのルートを確認しておき、いざというときに助け合いながら安全を確保できるようにしていければと思いました。
今回、東京を例に帰宅困難者の課題を紹介しましたが、国内の主な都市での帰宅困難者の想定は以下のとおりです。
それぞれの自治体のホームページに帰宅困難者対策のコーナーが設けられています。いざというときにどこに避難すればよいのか、確認しておくことが大切です。
WRITER
ライター:
瀬戸 洋一
メディアで20年以上、記者として勤め、現在はフリーに。国内で起きた数々の災害現場を取材。困難に直面した被災者の方々を前に、どのように被災地の厳しい状況を多くの人に伝えることができるのかいつも悩みながら取材をしています。 学生時代、スールー海の島でボランティアで井戸を掘りました。自分の掘った井戸が人々の喉を潤しているのを想像することも日々の支えのひとつとなっています。
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