
JOURNAL #5212026.02.27更新日:2026.02.27

空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”のプロジェクトリーダーを務める稲葉医師にとって、東日本大震災は初めての災害現場でした。「被災地に行けば誰かを助けられて、絶対に役に立てる」。しかし、その経験はトラウマのように今なお“もっともつらい記憶”として深く刻まれているといいます。悔しさと情けなさに支配された3.11の経験。今なお“ど真ん中”にあるというその記憶をたどってもらいました。

―― 東日本大震災が発災したとき、稲葉先生はどこにいましたか。
岡山済生会病院で外科医として働いていて、発災時はちょうど手術をしていました。手術を終えて休憩室に入ると、テレビから津波で車が流されていく映像が飛び込んできて、とにかく大変なことが起きていると、みんなが言葉を失ってしばらく動けずにいました。
その後、岡山済生会病院の外科医として厚生労働省が組織するDMATに所属していたので、すぐ出動の準備をして病院で待機していると、3時か4時頃に「朝6時に大阪の伊丹空港から花巻空港に向けて自衛隊の飛行機を飛ばすので、そこに間に合うチームは参集してください」という依頼がありました。急ぎ病院の救急車に乗って伊丹空港に行くと、各地域からDMAT隊員が集まってきていて、第一陣としておよそ60人の隊員と一緒に自衛隊の飛行機に乗り込み、花巻空港に向かいました。
この東日本大震災の緊急支援は、私にとって災害地で活動する初めての出動になります。
―― そこからどこでどのような支援を行ったのでしょうか。
よく一番大変だった災害支援について聞かれることがありますが、今のところ、この東日本大震災がその答えになっています。なぜかというと、実は花巻空港までは行きましたがそこから一歩も動けず、結局何もできなかったからです。
当時の構想では、花巻空港でSCU(Staging Care Unit:航空搬送拠点臨時医療施設)を開設し、そこに運び込まれた患者の応急処置を行い、必要に応じて東京や札幌の大きな病院に搬送するというミッションを担っていました。実際に何名かは搬送できましたが、そもそも空港に患者を集めること自体が難しく、一方で僕らが津波で被災している場所に出向いていく方法もなかったのです。

あのときはただただ悔しいのと、情けないのと、やり場のない怒りと、いろいろな感情が入り混じっていました。被災地に行けば誰かを助けられて、絶対に役に立てると思っていたのに、行ってみると患者さんは来ないし、自分たちも出ていけない。患者さんのために用意した毛布にくるまって、何もできないままどんどん時間は過ぎていきました。
そんなとき、地元の婦人会の方がおにぎりを握って持ってきてくれましたが、僕はあまりにも情けなくて食べることができず、むしろ自分たちが来たことが被災地の負担になっているのではないかと考えるようになっていました。無力……無力感よりもひとつ進んだ情けなさに支配され、さらに何もできないだけではなくて、迷惑になっている、と。
その思いが時間が経つにつれどんどん大きくなり、上司に「ここにいても迷惑をかけるだけなので早く帰りましょう」と言って、本当になにもしないまま花巻空港から撤退しました。その経験が私の中で一番しんどく、つらかった記憶になっています。
―― それから7年後の2018年に、稲葉先生は空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”のプロジェクトリーダーとしてピースウィンズに転職する決断をされました。
東日本大震災で何もできなかった悔しさもあり、岡山に戻ってからは救急医を続けながら災害医療について勉強し直しました。新しい知識を得るたびに「この方法を知っていれば、あのときもう少し何かできたはずだ」と考えながらいろいろ学んでいくなかで、ある日、ピースウィンズの大西代表から連絡がきました。
お医者さんでNPOを立ち上げたり、NPOに非常勤で所属する先生はいますが、常勤がNPO職員という医者は、おそらく日本にはいないと思います。前例がないぶん、だいぶ悩み、周囲にも相談したりしましたが、ほぼ全員から反対されましたね。それでも、どうしても東日本大震災で何もできなかったことがずっと頭の中に残っていて、もしもまた大きな災害が起きたときに、同じ立場でいいのかという思いはずっと持ち続けていました。
人からの指示を待って、言われたことだけをこなしていく立場では、東日本大震災のときに感じた悔しさだったり、情けなさを乗り越えることはできないのではないか、と。
そんなときに、大西代表から「民間だけど公的機関でもできないようなことにチャレンジしていく。 公的機関ができない部分を一部補えるようなチームをつくりたい」と声をかけられたのです。その発想は当時の僕にはまったくなく、考えれば考えるほど無視できない可能性と魅力を感じて、悩みに悩んだ末に大きなキャリアチェンジに挑戦することに決めました。

―― 災害医療とは、医療分野の中でも特別なものなのでしょうか。
災害医療専門の手術というものがあるわけではなく、災害現場で行う特別な術式や手技というのも存在しません。
災害医療は、普段の医療の延長線上にあって、その通常の医療がうまくまわらなくなることが、いわゆる災害のひとつの側面になります。医療の観点からいえば、洪水や地震などで普段の医療や福祉が提供できなくなる、その事態そのものが災害だということです。
では、災害医療とはなにか、というと、私は災害など困難なときに、普段の医療体制をいかに維持したり、可能な限り再現させたりすることが災害医療なのではないかと考えています。

―― そのために必要なことはなんでしょうか。
災害が起きたときに何ができなくなるのか、それを外部からどのように支えることができるのかを理解することが重要だと思います。
たとえば、病院では患者がドクターの前に搬送されて、その場で患者を診断したらその後のやることはある程度決まっています。その仕組みのなかで、技術を研鑽し経験値を高めていけば、救える命も増えていきます。
しかし災害現場では、待っていても患者は来ません。被災状況次第では、患者のところに行くことができない場合もあります。そもそもどこに患者がいるのかさえわからないのが災害現場です。そのため医療だけでなく、現地での移動手段の確保や健康にも深く係る物資支援、時にはインフラ整備など包括的に被災地を支援できる仕組みを構築して、それらをシームレスにつなげていくことが、ひとりでも多くの命をつなげていくことにつながります。
災害現場では、医療だけでは救えない命がある。誰かの指示を待って、言われたことだけをやっていたら、救える命は限られてしまいます。それは、まさに東日本大震災のときに強烈に学んだ教訓でもありますね。

―― 空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”は、まさに災害支援の専門チームとして被災地でそうした包括的な支援ができる体制で組織化されています。
能登半島地震の支援も含めたここ数年の経験を経て、災害現場で病院に勤務するドクターや看護師ができない部分をカバーできるチームに育ってきたと感じています。ここから個々のスキルや知識、経験値を高めてチーム力のさらなる強化を目指していきますが、同時に南海トラフ巨大地震や首都直下地震など、今後想定される大規模災害に備えるには、支援体制をよりスケールアウトしていく必要があります。
そのためには、“ARROWS”だけが少人数で被災地に赴いても限界があるため、やはりDMATや赤十字など、人数の多い大きな組織とうまくコラボレーションしていかなければいけないと感じています。
―― そのなかで空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”は、どのような役割を担い、チームを目指していくのでしょうか。
災害医療の専従チームだからこそできる役割を担っていきたいと考えています。それはヘリコプターや船舶を使った機動力だけではなく、被災地で提供できる災害医療の質や、細かい話でいえば、患者さんに対する声かけの仕方やあたたかさ、さらに緊急期以降の長く寄り添う中長期の支援など、災害現場をよく知る私たちだからこそできるきめ細やかな支援があります。ほかのチームと一緒に、 だけど自分たちにしかできないところを突き詰めていくことが、今後の空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”のひとつの目標になりますね。
言い換えれば、被災地で柔軟に、なんでもできるチームでありたい。これができれば欠けたピースが埋まったり、ここにこういう組織がいると全体がうまくいくような、誰も担えないような役割をARROWSが埋めていくことで結果的に僕らだけでは成し遂げられない、大きなイノベーションを創造していく。そのきっかけを生むチームでありたいと思っています。

―― 最後にあらためて、東日本大震災の記憶というのは、稲葉先生のなかでは鮮明に残っているものなのでしょうか。
15年も経っているのに、未だにど真ん中にありますね。実は、昨年の大船渡の山火事の緊急支援で、3.11以来、およそ15年ぶりに花巻空港に行くことがあったのですが、そのときさまざまな光景や感情が、まるで昨日のことのように強烈に蘇ってきました。
今後、災害が起きて誰かの役に立てたとしても、この記憶はおそらくずっと消えないのだと思います。
でもあのときの悔しさは間違いなく今につながっていて、東日本大震災での苦い経験があったからこそ、能登半島地震の支援では東日本大震災のときとはまったく異なる思考で活動できました。自衛隊と協働して孤立集落に出向いたり、とにかくあの現場でできることはすべてやり切った感覚はあります。
実は、東日本大震災のときの鮮明な記憶とは対照的に、不思議と能登半島地震の緊急支援のときの記憶は曖昧なんですね。映像の記録が残っているので、やったことはわかるのですが、そのときの感情が今ひとつ思い出せずにいます。それだけ必死に考えて考えて、東日本大震災でできなかった、患者や被災者に向き合う支援ができたのだと思います。
空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”
医師/プロジェクトリーダー
稲葉 基高
国内外で多数の災害医療支援経験を持つ。救急科専門医、外科指導医、消化器外科指導医、集中治療専門医、社会医学系指導医、統括DMAT等の資格を活かし、現場の目線を大切にした活動を心掛けている。
SUPPORT
ご支援のお願い
支援が必要な人々のために
できること
私たちの活動は、全国のみなさまのご支援・ご寄付によって支えられています。
一秒でも早く、一人でも多くの被災者を助けるために、空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”へのご寄付をお願いいたします。