JOURNAL #3972025.01.23更新日:2025.01.23

危機的状況で必要とされるのは、専門外のことにも立ち向かえる力。そして「手放すこと」【稲葉基高の記憶と記録#06】

ライター:若月 澪子

2024年元日に奥能登地方を襲った「令和6年能登半島地震」。この地震発生時に、どこよりも早く現地の医療支援に駆け付けたのが、NPO団体ピースウィンズ・ジャパンが運営する災害医療支援チーム「空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”」である。

その代表を勤めているのが空飛ぶ捜索医療団のプロジェクトリーダーとして20人もの医療、救護、被災地支援のプロを束ねる、医師の稲葉基高。日本海に手を伸ばす半島の指先の珠洲市で、彼らの能登半島地震の支援活動はスタートした。地震発生から1年が経った今、稲葉の目を通してあらためて当時の記憶と記録を振り返るドキュメント連載・第6回――

珠洲市に入った医療支援者は延べ1万2,000人にのぼった

1月1日に発生した能登半島地震によって、石川県珠洲市に駆け付けた医療支援団体は10を超え、延べ人数はおよそ1万2,000人にのぼった。

珠洲市内に医療支援チームが本格的に集まったのが、地震発生から5日目以降。能登半島の最端にある珠洲市は、地震による土砂崩れや地割れなどで道路が寸断。復旧にも時間がかかり、金沢から10時間もの大渋滞を経ないと辿り着けない場所になっていたのである。

珠洲市に入った医療支援チームは、稲葉たち空飛ぶ捜索医療団をはじめ、DMAT(ディーマット)、JMAT(ジェーマット)、日本赤十字、民間NGOのHuMA(ヒューマ)などだった。

DMATは、阪神淡路大震災で初動の医療体制が遅れたことを教訓に、2005年に厚生労働省によって組織された。災害拠点病院ごとに編成され、1チームあたり医師1~2名、看護師2名、ロジスティシャン1~2名で構成される。

JMATは、日本医師会が組織する医療チームで、やはり病院や診療所のスタッフで組織され、数名がチームを組んで現地に入る。

稲葉はもともとDMAT隊員でもあり、DMATの研修で講師も勤めている。訓練や災害支援を通じて、他の医療支援チームの医療関係者と顔見知りにもなっていた。

これらのチームの医療従事者は、普段は「本業」がある。支援チームとして被災地に入る場合は、勤務先の病院の勤務を一時的に離れなければならない。よって支援期間は1週間ほどと限られ、被災地には入れ代わり立ち代わり、さまざまな支援チームが入ることになるのだ。

こうした医療支援団体のなかで、空飛ぶ捜索医療団は最も小さい組織だった。また他の組織との違いは、被災地支援を「専業」で行っていることである。そして珠洲市に1番早く駆けつけたのが空飛ぶ捜索医療団だったため、今回は中心的な役割を担う形になった。

診察中のプライバシーを確保するために、キャンピングカーを活用したモバイルクリニックなどもおこなった

地震発生直後に稲葉が珠洲市健康増進センターの三上豊子と一緒に立ち上げた保健医療福祉調整本部は、これらのチームをまとめ、支援業務を調整する役割を担い続けた。医療チームは分担して、避難所や戸別訪問で診察などを行い、合わせて被災者のニーズを吸い上げ、調整本部に持ち帰る。

調整本部は毎日ミーティングを開き、支援チームと情報を共有し、さらに次の支援に結び付けていくという流れだ。調整本部に貼り出された珠洲市の地図には、日々避難所が書き加えられ、市内の被害状況が明らかになっていった。指定避難所は21箇所だったが、自主避難所を合わせると70を超える避難所があることがわかった。

届けているのは医療だけではない

看護師、調整員など職種に関係なく、他団体と協働して避難所設営にあたった

医療チームが取り組むのは、患者の診察や薬の処方など医療そのものだけではない。

水や食料の配給をはじめ、マスクや歯磨き、タオルなどの衛生用品・衣服・下着・おむつ・生理用品等の配布、ささやかな居住空間を確保するテントやパーテーション、段ボールベッドの設置など、避難生活を送る人たちの生活に関わるあらゆることに取り組む必要があった。

なかでもトイレ環境の整備は、インフルエンザやコロナなど感染症を防ぐうえでも、重要な仕事のひとつである。水や電気が通っていない避難所では水洗トイレが使用できなくなり、トイレ環境は劣悪になりやすい。排せつ物をビニール袋に包んで捨てる、防護服を身に着けてトイレ掃除をするなど、看護師や保健師が中心となってトイレの使用方法の指導にもあたった。

患者搬送のヘリを離着陸させる場所を確保するため、稲葉自身が雪かきをするようなこともあった。

避難所で大きな課題となった感染症対策。空飛ぶ捜索医療団の看護師もトイレ周りの掃除にあたり、避難者の方々に感染症対策の指導等も実施。時には避難所周辺のゴミ捨て場の整理なども行った

ただし、こうした多岐に渡る業務について、支援チームのなかには「それは医療者の仕事ではない」と言い出す者もいた。たとえば、避難所に行っても「病人がいなかった」と帰ってきてしまう支援チームがある。

稲葉はそこに、短期で支援に入る医療チームの限界も感じていた。

「支援チームには、被災者の問題を発見することも求められる。たとえば避難所でパンしか配給されていない場合、人によっては健康リスクが高まる危険がある。食事内容を聞いて、野菜やたんぱく質が採れているか、病気にかかりやすい環境になってないかなど、アンテナを張る努力も必要になる」

被災地に入る医療者には、自分の専門分野にこだわらず、被災者が必要としていることすべてに立ち向かう覚悟が必要なのだ。

戸別訪問や避難所を巡回し、健康面だけでなく、生活面での困りごとなども含め、被災者の声を聞く。その活動は、震災から1年経った現在も続けている

「患者さんから『食べるものもないし、家も失っています』と言われたとき、『それは医者の仕事じゃない』ではなく、行政につなぐ、行政が動けない場合は自分たちでどうにかするなど、自らが次の行動に出る必要がある」

支援チームのなかには、そうした状況を把握できないまま現地に入ることになる医療者も多い。

「若者に一旗揚げさせたい、災害医療を経験させたい、キャリアを積ませたいなどの思惑で、支援チームを送り出す場合もある。そういうチームは、瓦礫の中から救助された人を診察したいとか、ヘリで患者を搬送したいとか、“絵になる支援”を求めてしまう」

ところが現実に、多くの医療者が携わることになるのは、被災者の血圧を測りながら、悲しみに寄り添って話を聞く、地味で目立たない仕事である。

「現地に入る医療支援チームは、自分たちの“善意”を発揮できる場を求める。そうした思惑が空振りに終わると、ときに医療チームは苛立ち、現場でも争いが起きやすくなる」

そして地震発生から1ヵ月が経とうとした頃に、珠洲市でもそのような状況が起こりつつあった。

医療支援の終わり「出口戦略」とは

導入された医療コンテナにて診察する稲葉

珠洲市の医療支援が軌道に乗った2月上旬ごろ、稲葉は保健医療福祉調整本部の本部長である三上豊子から、こんな相談を受けた。

「珠洲市の医療機関も診療を始められるようになりました。そうなると、医療支援チームにいつまでいていただくのがいいのか……。助けに来ていただいているのに急に“医療支援は今日で終わり”というと支援者側も困るでしょうし、どう収束させればいいか悩んでいます」

外から来た医療支援チームが被災地で医療行為を行い続けると、患者は無料で診療や薬が手に入る。すると地元のクリニックや病院の経営を圧迫してしまう懸念があるのだ。

2024年2月の珠洲市は、断水が続くなか多くの市民が避難所生活を余儀なくされていたが、災害直後の混乱からはすでに脱していた。医療支援チームの役割も、地震による怪我や、救急の患者の対応はすでに終了し、今は避難所で暮らす人たちの診察や体調管理が主な仕事になっている。

被災地支援は徐々に、被災者の生活を再建する時期に入ろうとしていた。

一方で、珠洲市までの道路が復旧した2月は、支援したい者が誰でも行ける状態になっていた。実際に、地震が起きた2024年1月より、2月のほうが全国から能登半島に入った支援者の数が増えている。

「せっかく現地に医師を派遣したのに、会議室で一日暇しているようだと困る」
「ウチから派遣した医師は、ちゃんと診療ができるところに割り当てて欲しい」

そんな要望や不満が漏れる状況も生まれていた。

「そろそろ医療支援の 『出口』をつくっていかなければならないな」

稲葉は調整本部を立ち上げた自分が、それを畳む仕事もしなければならないと考えた。ただし、医療支援を終了するタイミングは、さまざまな医療チームが足並みをそろえる必要がある。

「被災地支援は、次の被災地における協力関係を築く場でもある。ここで強引に医療支援を終了させると、次の被災地支援に禍根を残すことになる。今後も異なる団体が力を合わせて困難を乗り越えていくためにも、日ごろからの信頼関係の構築は欠かせない。ここは丁寧にやったほうがいい」

そこで稲葉は一計を案じ、本部長の三上にある提案をしたのである。

僕たちがいなくなったら困りますか?

地域医療を支える珠洲市総合病院の浜田秀剛院長

2月16日。保健医療福祉調整本部では、いつものミーティングとは違った円卓会議が開かれていた。中心に座っているのは、本部長の三上と、彼女を補佐する稲葉である。

会議室の左側の列には、日本赤十字、DMAT、JMAT、HuMAなどの、現地に入った医療支援チームの代表たち。その向かい側には、珠洲市総合病院の浜田院長をはじめ、看護師長や珠洲市内でクリニックを開業している地元の医師たち。支援者と被災者の医師が、一堂に会したのだ。

彼らを稲葉の提案によってこの場に集めたのは、もちろん三上だった。

珠洲市で開業する地元の医師たちは、自らも被災し、病院の再建をしながら、被災者の医療を担わなければならないという二重の苦難を抱えてきた。医療支援チームが被災地に入るのは、被災者を救うだけでなく、同業の彼らの負担を減らす目的もある。

珠洲市総合病院では現場対応と人員不足等も重なり、レセプト業務まで手がまわせていないという報告を受け、医療事務をサポートする支援も行った

まず稲葉が地元の医師たちに、単刀直入に言った。

「今、僕たちがいなくなったら、先生たち困りますか?」

すぐに珠洲市総合病院の浜田院長が
「何とかできると思いますけどね」
と回答した。するともう一人、地元でクリニックを開業している医師も続けて言った。

「今まで本当にやっていただいてありがたかったけれど、これからは私たちで乗り越えていけそうです」

ここまではすでに、打ち合わせ通りだった。稲葉は赤十字やJMATなど支援チームの医師たちのほうを見た。

実はいくつかの支援チームから「次の次の次まで、派遣するチームの予定を組んでいる」「全国の医師や看護師の多くが、被災地支援に行きたいと手を挙げている」という声が聞こえていた。まだまだ支援を続けようとする彼らを納得させるために、地元の医師たちの声を直接聞いてもらうことにしたのだ。

支援の出口のタイミングは実は難しい。「被災地が大変そうだから」「彼らを見捨てられない」そういう思いで支援を続けてしまうと、逆に彼らの自立を妨げてしまうこともある。どこかで手を放す決断も必要なのだ。

「じゃあ、もう僕らも支援を終わりにしましょう。医療支援チームは珠洲市から撤退しましょう。今後は別の形でやれることをやっていきましょう」

稲葉が思い切って、支援チームの医師たちに呼びかけた。

「…そうですね、地元の先生方のお話を聞いてよくわかりました」
「これからも、助けが必要な時には力になりますよ」

被災地の医療を支えた支援チームの面々は、穏やかに答えた。稲葉はホッと胸を撫で下ろす。こうして珠洲市の被災地支援は、次のフェーズへと移ることになったのだ。

高齢化する被災地とどう向き合うか

2024年3月10日、珠洲市は晴れだった。

この日、医療チームが撤退するタイミングでイベントが開かれていた。稲葉の提案で、各医療チームが協力し、子どもや地域の人たちを集め、みんなが元気になるお祭りが開催されたのである。

会場になったのは、日本赤十字が珠洲市内の「道の駅すずなり」に立てていた救護所。被災した珠洲市民がにぎやかに集まった。空飛ぶ捜索医療団のメンバーもブースを設け、市民たちに自分たちの活動を知ってもらうためのゲームや展示を行った。

この日を最後に緊急の医療支援はその役目を終え、医師や看護師の多くは撤退する。ただし生活支援のために一部の看護師と物資調達などを行う調整員は、残留することになった。

「また帰ってきますよ」

そう励ます稲葉に対して、本部長の三上は目をうるませていた。

「これから一歩ずつ、前に進まないといけないですね」

復興は、まだ始まったばかりなのだ。

◇◇◇◇◇

2024年1月の能登半島地震の大きな特徴のひとつは、被災者の半数以上が高齢者だったことである。避難している高齢者のなかにはケアを必要とする要介護者も多かった。これは稲葉の災害医療支援の経験でも初めてのことだ。

たとえば、稲葉が海外医療支援に赴いた2021年のフィリピンの台風災害では、避難者の平均年齢は25歳。こういう被災地では、被災者に食べ物や水を渡すことができれば、多くの課題は解決に向かう。

ところが、能登ではそうはいかなかった。高齢者は食べ物と水があっても、劣悪な避難所にいるだけで、肺炎などを起こす危険がある。

だからと言って、弱っている人をすべて金沢のような被災地の外に運べばいいという話でもない。高齢者にとっては地域のコミュニティも、命をつなぐインフラのひとつだ。バラバラに避難した結果、高齢者は自分の生活のよすがを失い、孤独のうちに命を縮めてしまうこともある。

「今回、緊急性の高い高齢者は、とりあえず金沢に避難してもらった。電気も水も出ない不衛生な状況にいるよりは、それが最善の策とその時は信じていた。しかしそれが彼らのコミュニティを壊したのなら、その人の残りの人生にとって本当によい選択だったのかという問題が残る」

金沢などに避難した高齢者のなかには、故郷に帰りたいと、十分に復旧していない珠洲に無理矢理帰ってくる人もいた。

「医師の究極の役目は、個人を幸せにすることだ。どんな風に生きたいか、どんな風に最後を迎えたいか、その人にとっての本当の幸せとは何か……」

今回、高齢者率が5割を超えるこの被災地で、稲葉はこの問題に改めて向き合うことになった。そしてこれは能登だけでなく、今の日本に突きつけられた問題でもあるのだ。(了)

(→この連載を最初から読む

取材・文=若月 澪子

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空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”「能登半島地震 緊急支援」の活動記録は以下からご覧いただけます。

WRITER

ライター:
若月 澪子

フリーライター 1975年生まれ。NHKで契約のキャスター、ディレクターとしてローカル放送の制作にあたる。結婚退職後に家事と育児のかたわら、借金苦、就活、中高年の副業に関する取材・執筆を行う。著書に『副業おじさん 傷だらけの俺たちに明日はあるか』(朝日新聞出版)

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