JOURNAL #1122024.06.11更新日:2024.06.17

【令和6年能登半島地震】市職員として奔走した4ヵ月。これからは小さな一歩を積み重ねて未来へ

広報:空飛ぶ捜索医療団"ARROWS" 編集部

珠洲市健康増進センター所長:三上豊子氏

令和6年能登半島地震の災害支援において、保健医療福祉調整本部長を務めた珠洲市健康増進センター所長、三上豊子氏。空飛ぶ捜索医療団とは深い絆で結ばれ、ともに被災者の命と健康を守るために奔走されてきました。4月からは、復旧・復興本部被災者部会長を兼務。これまで以上に被災者に寄り添い、珠洲市を支えていくことになった三上氏は、発災から4ヵ月間、どのような時を過ごしてきたのか。 “これまで”と“これから”について伺いました。

「顔を見た瞬間に、なんだかほっとして涙があふれた」

2024年1月2日三上氏とARROWSスタッフ
2024年1月2日珠洲に到着した空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”スタッフと三上氏

1月1日地震発生直後、市の職員の方数名が市役所に参集されたそうですが、三上さんもそのひとりだったと聞きました。

発災当時私は家にいて、最初の震度5強の揺れがあった時点で出勤しなければと準備を始めたら、その数分後に震度6強の大きな揺れが来ました。海を見たら水が引いていくのが見えたので「津波がくる」と思い、とにかく健康増進センターに保管されている母子の記録などを移動させなければと、揺れが少し収まってから車で急いで向かいました。とても動揺していましたが、そんなとき、昨年の5月にも助けていただいた空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”の方から「すぐに行きます、落ち着いて」という連絡をいただいて……。

ただセンターに着いて鍵を開けて入ったけれど、いろいろなものが散乱してひとりではどうすることもできず、市役所に向かいました。

市役所は、どのような状態だったのでしょうか。

市役所までなんとか来られた職員は10数名しかいなかったのですが、住民や市外にいるご家族から次々とかかってくる電話と、避難してくる方々の対応に追われました。さらに寒かったこともあり、市役所の真っ暗な事務所のなかに人がどんどん入ってきて、椅子にかけてあったひざ掛け等を持っていってしまうなど、みんながパニックになっていましたね。私たちもとにかく「落ち着いてください」と言い続けるのが精いっぱいで。

ただ、星がとてもきれいだったことはよく覚えています。静かな星空と目の前の騒然とした現実があまりに違っていて、非現実的な世界にいるように感じていました。もうそのあたりの記憶があいまいなのですが、とにかくなにをすればいいのか、なにができるのかも分からず、気が遠くなるような時間のなかで、翌日気づいたら空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”の方々がいて、顔を見た瞬間に、なんだかほっとして涙があふれていましたね。本当に助けにきてくれたのだと。

【関連動画】【令和6年能登半島地震】時計は地震発生時刻で止まっていた

「笑顔を置いてきてください」この言葉に込めた真意

保健医療福祉調整本部の朝会の様子@健康増進センター
健康増進センターは保健医療福祉調整本部の拠点となり、毎日“朝会”が行われた

発災してから三上さんは保健医療福祉調整本部長として、不眠不休でさまざまなことに対応されました。

最初の1、2週間は、朝から晩まで動きまくって、すごく忙しくしているのですが、でもどこか真っ暗な闇のなかをぐるぐるとまわっているような感覚でした。ただ、テレビもないし、新聞もない。空飛ぶ捜索医療団をはじめ、DMAT、赤十字の方々に現場はお願いをして、私は現場に行くことはなく、みなさんからの情報を本部で集約して調整していく役割だったので、正直、被災状況の実感はなかったのかもしれません。

それから少し体調を崩して家にいるとき、明るいうちに市内をまわってみたら、あらためて目に飛び込んでくる惨状に胸が苦しくなったこともありました。実際に倒壊した家や、破壊された道路を見たら、「本当にこれは現実なのか、夢なんじゃないか」と。

それでも三上さんは毎日、保健医療福祉調整本部の朝会でかならず「今日も笑顔を置いてきてください」と話をされていたことがとても印象に残っています。

私は、ここ健康増進センターで支援者のみなさんが毎日笑顔で「大丈夫、大丈夫」と言ってくれることで本当に救われました。私がしてもらってうれしかったことを、一番大変な住民の方にしてきてほしい、そんな思いを、この言葉に込めていました。先行きがまったくみえない不安のなか、笑顔で声をかけてもらうことがどれだけ心強いか、本当にたくさんの方が助けられたはずです。

それに私個人にとっても、この朝会は必要な時間でもありました。毎朝みなさんを送り出すときに、気づいたことや前日にあった出来事などを話す機会をいただいたのですが、話すことで自分の気持ちを整理することができたり、本当に小さなことも変化としてとらえられるようになったり、あの朝会があったからこそ、踏ん張れていたようにも思います。

小さな変化とは、たとえばどのようなことだったのでしょうか。

自衛隊のお風呂などで住民の方々から聞く言葉から気づかされることが多かったですね。発災から1ヵ月が過ぎ、2月、3月になっても市内の様子は大きくは変わらないし、断水も長く続いて、下を向いていたら本当に立ち止まってしまいそうな状況のなかでも、再建に向けて前を向き始めている人がいる。それは決して目に見える変化ではありませんが、私にとってはそうした小さな変化を見つけることが重要で、支えにもなっていました。

保健医療福祉調整本部に多くの支援団体が集結。のべ1万2千人以上の医療従事者が支援にあたった

それともうひとつ、この健康増進センターに集まった医療関係の方々の“熱気”にも本当に助けられました。それぞれに文化が異なる本当にたくさんの団体が一堂に会したので、最初の頃は戸惑うことや混乱することもありましたが、それも少しずつ解消されていきながら、団結していく様子を見てきました。冬の寒さが本当に厳しい時期でしたが、珠洲のなかでもこの健康増進センター内はいつも熱気にあふれていて、その大きなワンチームとして結束していく雰囲気にも、支えられていたように思います。

外部支援団体との関係性を築くことも震災に備える重要な対策になる

三上氏と稲葉医師@健康増進センター
三上氏と空飛ぶ捜索医療団の稲葉医師。災害支援において官民の連携は不可欠で、昨年5月の震災時に築いた関係性は少なからず今回の緊急支援に生きたという

発災からこれまで、本当に多くの決断をされてきたと思います。そのなかでも医療支援をやめるタイミングは、どのように決められたのでしょうか。

医療支援から福祉・生活支援へ切り替えるタイミングは、とても迷いました。急に“医療支援は今日で終わり”となってしまうと、支援者側も私たちも困るので、そうした収束に向かう準備や調整をしていく必要があります。まずは市としてどうしたいかという明確な意志を持たないと、みなさんに迷惑がかかってしまいますし、終わりを決めずにいるとずるずるといってしまい、結果的に被災地の復興を遅らせてしまうことにもなりかねません。

そのために今回は、珠洲市総合病院や開業医の方々とも話し合いながら、3月10日を目途に医療支援はひと区切りすることを決定し、そのことを2月16日のミーティングで周知しました。発災から試行錯誤しながら体制や仕組みなども確立されてきて現場がうまくまわっているときに、「医療支援は3月で終了します」と伝えなければいけない。せっかくみなさんががんばって私たちを助けていただいたのに、「もういらないのか」と思われることは絶対に避けたかったので、その伝え方と調整には時間をかけて考えました。

チームによっては1週間単位で人が変わるなかで、縮小していくことが思うように引き継がれていないこともありましたが、そうした困っていたときも、空飛ぶ捜索医療団の稲葉先生が本当にタイミングよく現れて、からまった糸をさっとほどいていくようにサポートしていただいて。それぞれの立場を尊重しながら珠洲の状況も考慮して、一緒に考えていただいたことが本当に助けになりました。

最終的に3月10日に行われたイベントをもって道の駅に設置された救護所なども閉所され、医療支援は、福祉・生活支援に移行することになりました。

イベントには多くの住民の方々にも集まっていただき、医療支援は一旦終える明確な区切りを設けたことで、私たちにとっても自分たちで立ち直っていかなければならないことを再認識できた、良いきっかけになったと思っています。

3月10日道の駅すずなりでのイベント
2024年3月10日「道の駅すずなり」で行われたイベントを機に医療支援はその役目を終えた

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三上さんも被災者であるにもかかわらず、支援者の立場として奔走されました。難しい決断をせまられたことも多かったのではないでしょうか。

そうですね、家がもっとひどい状況でしたら、もしかしたら私自身、もたなかったかもしれません。でも、もちろん市がやらなければいけないことはたくさんありますが、実際、被災した自治体だけで復旧・復興を進めていくことは難しく、外部支援団体の存在がどれだけ必要か、今回の震災であらためて実感しています。

空飛ぶ捜索医療団の方々には、昨年5月の震災のときも助けていただきました。まるで隣町から来るかのようにすぐに助けにきていただいて本当に感謝しかないのですが、一方で市として外部支援団体とこうした関係性を築いておくことが、心の拠り所となり、震災に備える対策として必要なのではないかと思っています。

珠洲に生まれて珠洲で育って、珠洲で生きてきてよかったと思ってもらえるようなまちづくりを

三上氏とARROWSスタッフ
インフラが復旧されず、珠洲市内にはいまだ断水が続いている地区も多い。珠洲市が日常を取り戻すまでにはまだまだ長い年月がかかる

珠洲市は現在(4月中旬)どのような状況なのでしょうか。

一番の問題は、解体なども含む家の再建と、水の問題。これらの多くは、すぐに解決できるものではなく、なかなか復旧が進まない状況に市としてもジレンマを感じたりしています。さらに、避難所にいる方と2次避難されている方、仮設住宅に入居された方、在宅避難だけどまだ通水していない方など、同じ被災者でも置かれている状況や場所によって、それぞれが抱えている問題や不満が異なるといった事態が生じています。

その原因のひとつが情報の分断で、互いの状況が分からなかったり、支援・助成などの大切な情報が十分に行き届いていないことも問題になったりしています。そうした情報格差のような状況をなくしていきながら、住民の声をしっかりと市に共有していくことが、今後の私の重要な役割になりますね。

最後に、三上さんのこれからの活動について聞かせてください。

最初の1、2ヵ月は、暗闇のなかでもやらなければいけないことだらけでしたが、支援が医療から福祉・生活支援へと変わっていくなかで、本当に復興に向かっているのか、その変化が見えづらくなってきています。なんとかみなさんの力になりたい、ひとつでも前へ進めなければという気持ちが強いことに変わりはありませんが、これからの支援は長い、本当に長い旅になります。だからこそ、急ぐだけでなく、自分もつらいときは一回、立ち止まって、深呼吸しようと思います。これまでは休むことに罪悪感を感じることもありましたが、長く寄り添い続けていくためには、市の職員も休むことが必要なのではないかと。

もちろん、1日でも早い復旧・復興が求められますが、今は小さな一歩を積み重ねていくことが大切で、それがいつか大きな変化につながればと思っています。

また、ご存じの通り、珠洲市は高齢者が多い地域で、珠洲を愛している方々が震災で離れるか、住み続けるか迷っています。でも、市の職員として、ひとりの人間として、おじいちゃん、おばあちゃんの笑顔をもっと見たい。やっぱり珠洲に生まれて珠洲で育って、震災が起きても珠洲で生きてきてよかったと思ってもらえるようなまちづくりをめざして、できることを考え続けていきたいと思います。

(2024年4月珠洲市健康増進センターにて)

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必要な人々に必要な支援を届けるために

空飛ぶ捜索医療団“ARROWS”は、現在も珠洲市を拠点に支援活動を行っています。通水が再開し、道路の整備や瓦礫の撤去が進むなど、少しずつ町は復旧していますが、復興までの道のりは長く、被災者の方々の避難生活は続きます。「必要な人に必要な支援」を届け続けるために、皆さまのあたたかいご支援をお願いいたします。

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